把瑠都凱斗
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把瑠都凱斗(ばると かいと、1984年11月5日 - )は、エストニア共和国ラクヴェレ県出身で尾上部屋(入門時は三保ヶ関部屋)所属の現役大相撲力士。本名はカイド・ホーヴェルソン (Kaido Höövelson) 。身長197cm、体重174kg、血液型A型。最高位は東前頭筆頭。得意技は左四つ、寄り、投げ。
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[編集] 来歴
柔道経験者で、エストニアジュニアチャンピオンの実績も持つ。来日前は酒場の用心棒も努めた。また、語学が堪能でドイツ語、ロシア語、英語、エストニア語を入門時点で話すことができた。ブロンドヘアのコーカソイドであり、どのように大銀杏を結うのか注目されている(髪が細く、伸びも遅いため2006年11月場所現在、まだ大銀杏は結えない)。史上初のエストニア出身力士・関取。
四股名は国が面するバルト海から。凱斗の名は本名Kaidoのエストニア語読み「カイト」の音に、日本で素晴らしいものをつかみ母国に凱旋してほしいという願いを込めた漢字をあてて三保ヶ関が名づけた。
2004年5月場所初土俵。序ノ口・序二段と2場所連続で優勝するなどスピード出世で、2005年7月場所では西幕下6枚目で5勝2敗という成績で同部屋の白石と同時に十両昇進を果たした。しかしながら、同年5月場所において白石は同地位、同成績ながら十両昇進を見送られており、この昇進に関して疑問の声も多数上がった(同地位同成績での十両昇進は1991年11月場所の寺木(蒼樹山)以来14年ぶり、幕下が七番制になってからの45年間で9例目)。新十両の翌9月場所は優勝次点である12勝3敗の成績だったことから、結果的には正しい昇進だったと言えるものの、番付編成の基準の一貫性のなさが改めて問題となった。
9月場所には優勝した豊ノ島に唯一の黒星を付け12勝3敗。翌場所は十両西4枚目に躍進し、史上最速の前相撲からの所要10場所での新入幕を十分狙える位置にあったが、場所初日に急性虫垂炎を発症し全休、幕下に陥落した。幕下では地力の違いを見せ、虫垂炎の手術時に施された全身麻酔の後遺症から思うように身体が動かない中、7人による優勝決定戦を制して幕下優勝、1場所で十両に復帰した。3月場所では北の冨士以来43年ぶり4人目(本場所が15日制になってから)となる十両全勝優勝を果たし、史上2位タイとなる所要12場所での新入幕を決めた。この場所千秋楽の全勝優勝インタビューにて北の富士から「横綱、横綱」と言われるなど早くも横綱昇進を期待する声もある。過去に十両で15戦全勝優勝を達成した力士は栃光と豊山が大関、北の富士が横綱まで昇進しているため、そのことからも大きな期待を受ける。
新入幕の5月場所は序盤で2敗を喫するも、そこから素質の高さを見せて勝ち進み13日目終了まで2敗をキープする。残り二日をこの場所優勝を争った関脇雅山と大関白鵬に連敗を喫したが、11勝4敗で優勝次点の成績をおさめ、敢闘賞を受賞した。前相撲から13場所目での三賞受賞は栃東、琴欧州(現・琴欧洲)と並び史上最速である。またこの場所の千秋楽で三役揃踏を行ったが、新入幕でこれをつとめたのは1973年9月場所の大錦以来33年ぶり、史上2人目のことであった。また、前相撲から13場所目でのこれより三役出場も琴欧州を抜いて史上最短の記録である。
2006年9月場所は東前頭筆頭まで進み三役昇進を期待されたが、上位陣に対して苦戦し、十日目(9月19日)の雅山との取組で左ひざを痛め、翌日から休場した。これまでの体格と力に頼る相撲が上位に通じず、攻め手が出ないときに安易な引き技を多用し、その際に、膝の備えがなく送り足が不十分であるという下半身の弱さが出て、無理な力が脚にかかり負傷の原因となった。翌11月場所は稽古不十分ながら10勝を上げたものの、下半身の不安定さからたたらを踏む場面が多く、複数のテレビ・ラジオ解説者を嘆かせた。上位で安定した成績を残すための克服すべき課題がはっきりしたとも言える。
巨躯強力を活かし遠い位置からでも上手を掴んで攻める豪快な相撲が魅力だが、優れたスピードとバランス感覚も持ち合わせ、土俵際の際どい場面からでも逆転できる。本人は身体能力に任せた相撲に飽きたらず、立ち合い鋭く下手を差して腕を返し一気に前に寄る相撲を理想としている。
NHKの新十両紹介のインタビューでもっとも対戦したい力士に琴欧州を挙げた。理由は自分より背が高い力士であるためである。2006年7月場所九日目(7月17日)に初顔の取組が組まれ、がっぷり四つからの投げの打ち合いを制して初勝利を上げた。
[編集] エピソード
- 極めて陽気で茶目っ気のある性格であり、部屋での人間関係も良好である。また、塩撒きパフォーマンスを行う北桜との対戦では、そのお株を奪うような大量の塩撒きを披露して館内を湧かせた。
- 上記のとおり新入幕で三役揃踏を行ったのだが、その際あまりの出世の早さ(および金髪人種独特の髪質)が影響して大銀杏が結えなかったため、ちょん髷姿で揃い踏みを行うという非常に珍しい記録を作った。
- 出身地を「奄美大島」と答えたこともある。(同じ尾上部屋の里山が奄美市の出身で、共に角界ではマイナーな出身地であることからか)
- 外見から一部マスコミでは角界のディカプリオと呼ばれている。
- 2006年11月場所から闘牙のようにもみあげを伸ばしているが、エルヴィス・プレスリーを意識しているとのことである。しかしながら、「似合ってない」との声が多かったからか、もみ上げは2日目には剃り落としていた。
[編集] TV出演
- 2006年8月4日 「元祖でぶや」(テレビ東京)に春日王、旭天鵬とともに出演。出演者の石塚英彦、パパイヤ鈴木、青木さやか、ふかわりょうとともに温泉、バーベキューなどを楽しんだ。
- 2006年7月1日 メレンゲの気持ち
[編集] CM出演
[編集] 略歴
- 2002年 - 柔道エストニアジュニア選手権で準優勝
- 2003年 - 同選手権で優勝
- 2004年 - 日大相撲部の倉園一真(現・薩摩力、尾上部屋所属)の父親の仲介で、同郷の北欧司(入間川部屋、同年9月引退)と共に来日。日大相撲部で日本や相撲に馴化する。
- 2004年5月場所 - 初土俵。
- 2004年7月場所 - 序ノ口優勝
- 2004年9月場所 - 同部屋の里山との優勝決定戦を制し序二段優勝
- 2005年9月場所 - 新十両。前相撲からの所要8場所は小錦と並び歴代3位タイ。初日から13連勝の豊ノ島に土を付け全勝を阻み、12勝3敗で優勝次点と活躍する。
- 2005年11月場所 - 最速記録の所要10場所での入幕も見える西十両四枚目に昇進したが、場所の初日に急性虫垂炎を発症し初日から休場(1不戦敗14休)。
- 2005年12月 - 入門以来初めて故郷エストニアに一時帰国する。
- 2006年1月場所 - 11月場所の休場で、西幕下3枚目に陥落するも7人による優勝決定戦を制し、幕下優勝(6勝1敗)。十両復帰を果たす。
- 2006年3月場所 - 再十両のこの場所、東11枚目で初日から連勝、13日目にして十両初優勝を決め、更には1963年11月場所の北の富士以来42年4カ月ぶり、史上4人目、外国人力士としては初となる十両での15戦全勝優勝を達成し『北の富士賞』を受賞。
- 2006年5月場所 - 新入幕。前相撲からの所要12場所は11場所の琴欧州に次ぎ、板井、小錦、栃東、朝青龍、時天空、嘉風と並んで史上2位タイの速さ。11勝4敗で優勝次点、敢闘賞受賞。
- 2006年8月 - 尾上部屋の分家独立に伴い、白石・里山らとともに移籍。
[編集] 幕内での場所別成績
場所 | 地位 | 勝数 | 敗数 | 休場 | その他 |
---|---|---|---|---|---|
平成18年5月 | 西前頭11枚目 | 11 | 4 | 0 | 敢闘賞 |
平成18年7月 | 西前頭4枚目 | 9 | 6 | 0 | - |
平成18年9月 | 東前頭筆頭 | 4 | 7 | 4 | - |
平成18年11月 | 西前頭6枚目 | 10 | 5 | 0 | - |
通算 | 34 | 22 | 4 | - |
[編集] 主な成績
2006年11月場所終了現在
- 通算成績:108勝35敗18休(16場所)
- 十両成績:27勝4敗14休(3場所)
- 幕内成績:34勝22敗4休
- 幕内在位:4場所
[編集] 各段優勝
- 十両優勝:1回
- 幕下優勝:1回
- 序二段優勝:1回
- 序ノ口優勝:1回
[編集] 三賞・金星
- 敢闘賞:1回(2006年5月場所)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: エストニアのスポーツ選手 | 外国出身力士 | 1984年生