性的少数者
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性的少数者(せいてきしょうすうしゃ)とは、何らかの意味で性別のあり方が非典型的な人のこと。性的少数派、セクシュアル・マイノリティ、性的マイノリティとも言う。同性愛者、半陰陽者、性同一性障害者などが含まれると考えられている。
同様の意味で、レズビアン (Lesbian)、ゲイ (Gay)、両性愛者 (Bisexual) の頭文字を取って LGB と言ったり、トランスジェンダー (Transgender) を加えて LGBT(エルジービーティと発音するのが普通)、更に半陰陽者 (Intersexual) を加えて LGBTI と言ったりもする。
逆に、ゲイを先にしたGLBT(I)という言い方もあるが、最近ではLGBT(I)と称するケースが多くなった。LをGより先にする理由は不明である。この点、ゲイに比べて根ざす社会基盤が脆弱であり、一般的に認知されづらいレズビアンを先に呼称して認知力を高めようというポリティカル・コレクトネスの観点からとする説もあるが、これだとLGがBTより先の理由が説明できず、実際には単なる音の響きのよさなどによるのであろう。なお、欧米では「性的少数者(一般)」を指す言葉といえばLGBT(I)が普通であって、sexual minorityという言い方はほとんどしない。
同性愛・両性愛、半陰陽、性同一性障害は現象としてはかなり異なったものであるが、幾つかの理由から総じて論じる必要もあることから、性的少数者という概念が用いられる。理由としては次のようなものがある。
- 人間の性にまつわる活動を単純に2種類に分類できると想定した諸制度において不都合を生じるという点では一致している。
- これらの概念に関して知識の無い人間からはしばしば混同されがちであり、混同した上で蔑視する者もいる。
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[編集] レインボーカラー
性的少数者の象徴は虹色(レインボーカラー)である。同性愛者団体の活動などでは虹色の旗(レインボーフラッグ)が好んで用いられ、新宿二丁目で2000年から行われている「東京レインボー祭り」の名称もこれに由来する。レインボー・フラッグは、1978年にゲイ・コミュニティの象徴となる旗のデザインを依頼されたギルバート・ベイカーが考案した。
虹の色は性の多様性を象徴するものと解釈されている。虹は次のような点で人間の性別に似ている。
- 虹には様々な色が含まれ、共存している。
- 虹を構成する色は連続的であり、明確な境界を引くことはできない。
- しかし、「虹の七色」というように人間は便宜的に境界線を引いて区別している。
- 時代・地域によっては「虹は五色」であり、境界線の引き方は文化に依存する。
- 境界線を重視しすぎると科学的には正しくないことがある。
現在のレインボーフラッグにおいては赤、橙、黄、緑、青、紫の6色で虹を表している。ただし、ベイカーによるオリジナルの旗はピンク、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の8色であった。製造上うまく発色しないことからまずピンクが削除された。次に、1979年、サンフランシスコのゲイ・パレードにおいて虹色の横断幕を左右に分割できるようにと、藍が削除された。
[編集] オーヴァー・ザ・レインボー(Over the Rainbow)
性的少数者のテーマソング的名曲。EH ハーブルグ作詞、ハロルド・アーレン作曲。アメリカのミュージカル映画オズの魔法使い(MGM, 1939年)の中で、主人公のドロシー(ジュディ・ガーランド)が、カンザス州の自宅の庭で、虹の彼方(オーヴァー・ザ・レインボー)を夢見て歌う。なお、この場面はモノクロである。
のちに、ジュディの娘であるライザ・ミネリがゲイの作曲家ピーター・アレンと結婚するなど、性的少数者が身近にいて、彼らに対して理解の深かったジュディは、彼らのアイコンとなり、1969年6月22日に亡くなった彼女を追悼するため、ニューヨークのパブ、ストーンウォール・イン(Stonewall Inn)に集まった同性愛者たちが警察と衝突した事件が、有名なストーンウォール事件(同年6月27日)である。
また、ゲイの歌手エルトン・ジョンは、ジュディの死を悼んでグッバイ・イエロー・ブリック・ロードを作曲したが、これは映画の中でオズへ続く「黄色いレンガの道」を指している。
このように、この曲と性的少数者の間にはもともと浅からぬ因縁があるが、たとえそれを知らなくても、未来の夢・希望を歌った前向きで明るい歌詞、一度聞いたら忘れられない親しみやすく美しいメロディは、性的少数者のテーマソングとしていつまでも歌い継がれることだろう。
[編集] 用語法
日本語の「少数者」「少数派」は「マイノリティ」に比べて「政治的・制度的に不都合を被っている」というニュアンスが希薄であり、単に「少数である」という事実を述べているに過ぎない、と考える人もいる。彼らの中にはセクシュアル・マイノリティの語を使うことが政治的により適切であると主張する者もいる。