川崎財閥
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川崎財閥(かわさきざいばつ)は、
- 男爵川崎八右衛門によって設立された関東の財閥。十五大財閥の1つ。
下記の川崎財閥と区分するため、所在地から「東京川崎財閥」とも、財閥の性格から「川崎金融財閥」とも言われた。
水戸藩御用商人から、1875年東京に進出し川崎組を設立。1876年安田善次郎と共に東京・日本橋小舟町に第三国立銀行を開業。1881年東京・日本橋檜物町(現在の三菱UFJ信託銀行日本橋営業部の地)に単独で川崎銀行を設立。この川崎銀行を中核企業として、保険、貿易、鉱業などに進出。同族で企業統治を固め小規模財閥に留まった。
財閥本社の定徳会は戦後の財閥解体で一旦解散したが、現在は不動産会社「川崎定徳株式会社」として東京都内を中心に事業を展開している。
その他流れをくむ企業として、第百銀行、常陽銀行、足利銀行、千葉銀行、東日本銀行、太陽銀行(合併により現・三井住友銀行)、日本信託銀行(救済合併により現・三菱UFJ信託銀行)、日本火災(合併により現・日本興亜損害保険)、第百生命(経営破綻後、現・マニュライフ生命保険)等がある。 - 男爵川崎正蔵によって設立された関西の財閥。8大財閥の1つ。
上記の川崎財閥と区分するため、所在地から「神戸川崎財閥」とも、また正蔵の死後幹部である松方幸次郎に経営が一任されたため「松方コンツェルン」とも呼ばれる。
1878年に、松方正義等の援助のもと川崎築地造船所を設立、十五銀行を主力行として、昭和初期までに経営の基盤を固めた。しかし、後継者の財閥経営の失敗から部下の離反を招き、川崎汽船、川崎重工業等の有力企業が独立して昭和恐慌の際に財閥としての実態を失った。財閥解体においては川崎重工業が集中排除の対象となり、川崎製鉄(現在のJFEスチール)が分離した。
上記会社の他、関係会社として神戸新聞社、昭和シェル石油(母体の旭石油が川崎造船所系)等がある。