岳雲
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岳雲(がくうん1119年 - 1141年)は中国南宋の武将。岳飛の甥でその猶子。本姓は蔡、名は済文。母が岳飛の姉らしい。
[編集] 略伝
なかなか男子が恵まれなかった叔父・岳飛の猶子となり、武勇に優れ、武将としての素質に頭角を現した(後に岳飛は実子が生まれる)。
だが、南宋の宰相の秦檜は岳飛父子が目障りで、目の上の痰瘤だった。そこで彼は金の皇族の梁王・宗弼(兀朮・斡啜)と密約を結んで、岳飛及びその養子の岳雲を逮捕して投獄した。
やがて、1141年の冬に、岳雲は秦檜によって養父の岳飛と極刑され、晒し首にされたという。
享年23であったという。
その死後、岳父子に対する人々の同情によって建てられた岳廟(がくびょう)で岳雲は父・岳飛と共に凛とした銅像として父子揃って祀られており、その下には彼等を死に追い詰めた秦檜夫妻が揃って土下座して這い蹲うような銅像がある。
[編集] 史料
『宋史』(巻三百六十五 列伝第一百二十四)
雲,飛養子.年十二,從張憲戰,多得其力,軍中呼曰「贏官人」。飛征伐,未嘗不與.數立奇功,飛輒隱之。每戰,以手握兩鐵椎,重八十斤,先諸軍登城。攻下隨州,又攻破鄧州,襄漢平,功在第一,飛不言。逾年,銓曹辯之,始遷武翼郎.楊么平,功亦第一,又不上.張浚廉得其實,曰:「岳侯避寵榮,廉則廉矣,未得為公也。」奏乞推異數,飛力辭不受.嘗以特旨遷三資,飛辭曰:「士卒冒矢石立奇功,始沾一級,男雲遽躐崇資,何以服■。」累表不受.潁昌大戰,無慮十數,出入行陣,體被百餘創,甲裳為赤。以功遷忠州防禦使,飛又辭;命帶御器械,飛又力辭之。終左武大夫、提舉醴泉觀。死年二十三.孝宗初,與飛同復元官,以禮祔葬,贈安遠軍承宣使。
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