岩国城
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復元天守 | |
通称 |
横山城 |
城郭構造 |
連郭式山城 |
天守構造 |
望楼型4重6階 |
築城主 |
吉川広家 |
築城年 |
慶長6年(1601年) |
主な改修者 |
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主な城主 |
吉川氏 |
廃城年 |
元和元年(1615年) |
遺構 |
石垣、水堀、空堀、復元天守 |
岩国城(いわくにじょう)は、日本の城。所在地は山口県岩国市横山。
[編集] 概要
岩国城は山上の城である「横山城」と、麓の居館である「土居」から成る。江戸時代初期は岩国藩の居城となり、廃城後は土居が陣屋として存続した。
現在、山上には古図面をたよりに復元された天守が建っている。これは麓からの見栄えを重視したもので、本丸北側に本来の天守台があるが、現在の天守は本丸南側に建てられている。
[編集] 沿革
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となった。同時に一族であり毛利家存続に注力した吉川広家も同時に米子城から当地に3万石で封じられた。
慶長5年10月には家臣団が、慶長6年(1601年)には広家がこの地に赴任した。広家赴任と同時に岩国城の築城が開始された。麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。築城には8年の歳月が費やされ、まず翌慶長7年(1602年)に土居が完成した。土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、慶長13年(1608年)に竣工した。本丸には外観4重、内部6階の南蛮様式の天守が建造された。
しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。これは、周防国にはこの岩国城のみが存在していたが、長府藩の毛利秀元が居城の櫛崎城を破却したことに合わせざるを得なかったことによる。
その後、麓の土居は岩国藩の陣屋として明治維新まで存続した。この、岩国藩は本藩である長州藩より永く独立を認められず陪臣として扱われた。当藩は明治維新の年、慶応4年(1868年)に漸く独立の藩として認められ諸侯に列した。
明治18年(1885年)居館「土居」跡が公園となり、堀端に絵馬堂である錦雲閣が建造され現存している。昭和37年(1962年)本丸南側に復元天守が完成した。