尾高城
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所在地 | 鳥取県米子市尾高 |
城郭構造 | 連郭式 |
築城主 | |
築城年 | 大永4年(1524年)以前 |
主な改修者 | |
主な城主 | 行松正盛、吉田光倫、杉原盛重、吉田元重 |
廃城年 | 慶長6年(1601年) |
尾高城(おだかじょう)は、鳥取県米子市尾高に所在した城館。泉山城(いずみやまじょう)ともいう。
目次 |
[編集] 概要
標高40mの河岸段丘上にあり、背後に大山、眼前に箕蚊屋(みのかや)平野が広がる。戦国時代、西伯耆の要衝であり、尼子氏と毛利氏の争乱の舞台となった。
米子勤労総合福祉センター「米子ハイツ」建設に先立ち、1974年から発掘調査が実施された。出土遺物は13世紀から16世紀にかけての、輸入・国産陶磁器類、古銭、笄、刀子などである。戦国時代の西伯耆の中核的な城館跡として、一部は保存整備され、米子市の文化財に指定されている。
[編集] 構造
- 空堀と土塁によって、8つの郭(くるわ)を連ねる。
- 郭は、字名の残る本丸、二の丸、中ノ丸、天神丸、南大首郭、越ノ前郭のほかに、Ⅳ郭、方形館跡がある。
- 本丸は、西に平野を望む位置にある。平野に91×41mの規模をもち、南と東・西に土塁を設ける。土塁は最高所で高さ4mを測る。
- 二の丸は、本丸の北、城の北端に位置する。51×34mの規模をもち、東側に土塁を設ける。
- 中ノ丸は、本丸の南に位置する。47×37mの規模をもち、東と南に土塁、北と西側に腰曲輪を設ける。
- Ⅳ郭は、中ノ丸と天神丸の間に位置するが、名称は不詳。20×12mの規模をもち、東側に土塁が残る。
- 天神丸は、城の南端に位置する。70×65mの規模をもち、東と南に土塁が巡っていた。内部に井戸が検出されている。
- 南大首(みなみおおくび)郭は、天神丸の北に位置する。60×40mの規模をもち、東と南側に土塁が巡っていた。内部西側に櫓跡が検出されている。
- 方形館跡は、本丸の東、南大首郭と越ノ前郭の間に位置する。69×56mの規模をもち、東と南・北に土塁を巡らせ、西側切岸下に伝倉庫跡を設ける。
- 越ノ前郭は、方形館跡の北、城の北東端に位置する。60×55mの規模をもつ。
[編集] 歴史
- 大永4年(1524年)、大永の五月崩れによって落城、尼子氏の支配となる。城主行松正盛は流浪し、尼子方の吉田光倫が城主となる。(伯耆民談記)
- 永禄5年(1562年)、毛利氏の尼子氏攻略に伴い、行松正盛が再び城主となる。
- 永禄7年(1564年)、行松正盛病死し、毛利家臣の杉原盛重が城主となる。
- 永禄12年(1569年)、尼子氏再興の旗揚げをした山中鹿介らにより、一時城を奪われる。(陰徳太平記)
- 天正9年(1581年)、杉原盛重、八橋城において没す。(家督は嫡男元盛)(伯耆民談記)
- 天正11年(1583年)、伯耆国佐陀(現在の米子市淀江町佐陀)に在る杉原景盛、兄元盛を謀殺する。
- 天正12年(1584年)、杉原景盛、毛利氏に攻められ戦死。吉田元重、尾高城に在番。
- 慶長6年(1601年)、伯耆国領主中村一忠、一時尾高城に入るが、米子城へ移り、廃城となる)
[編集] 資料
- 『尾高城址-発掘調査報告-』1978 尾高城址発掘調査団・米子市教育委員会
- 『尾高城址Ⅱ発掘調査報告書』1979 尾高城址発掘調査団・米子市教育委員会
[編集] 関連項目
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