少年キング
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「週刊少年キング」(しゅうかん しょうねん-)は、少年画報社が発行した週刊漫画雑誌。1963年7月8日に創刊されて、1982年4月に休刊。同年に月2回刊の「少年KING」として復刊したが、1988年に再び休刊した。
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[編集] 概要
1959年に創刊された「週刊少年マガジン」「週刊少年サンデー」に続いて、1963年に創刊された第三の週刊少年誌である。先行誌が定価50円だったのに対して、創刊号は30円、通常号は40円と安価にして初期読者の獲得を狙った。誌名の「少年キング」は、1963年7月に「少年画報」誌上で、「少年フレンド」「少年ファイター」「少年ルック」「週刊少年画報」と並んで候補として挙げられた中から、読者の人気投票で決定したもの。後続の1968年創刊の「週刊少年ジャンプ」、1969年創刊の「週刊少年チャンピオン」とともに週刊漫画雑誌5誌体制を1970年代から1980年代にかけて築いたが、部数的には低迷して常に最下位であった。
双葉社の大人向け週刊誌「週刊大衆」の編集デスクだった多田三郎を週刊誌のノウハウを持つとしてスカウトし、その4年後に創刊された。先行する「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」に部数が奪われていた月刊誌「少年画報」の週刊誌版という位置付けであった。創刊号の掲載作品は、「少年画報」で「0戦太郎」を連載して好評を博していた辻なおきの『0戦はやと』、吉田竜夫の『忍者部隊月光』、望月三起也の『ハヤブサ』、堀江卓の『忍者シデン』、森田拳次の『おんぼろ記者ポッポー』など、その多くが「少年画報」の執筆メンバーである。
創刊直後から手塚治虫や、石ノ森章太郎・藤子不二雄ら人気漫画家が勢ぞろいしたトキワ荘グループを積極的に起用し、さらにはテレビ化もされた梶原一騎の『柔道一直線』『赤き血のイレブン』、藤子不二雄Aの『フータくん』、『怪物くん』、つのだじろうの『忍者あわて丸』(『花のピュンピュン丸』)、梅本さちおの『アパッチ野球軍』等のヒット作に恵まれた事もあって、創刊時には25万部だった発行部数が、70万部を最高に、1970年代半ばには45万部から60万部弱に達した。「少年画報」の懸賞小説でデビューした梶原一騎は、売れっ子だったにも関わらず、少年画報社に恩義を感じ、「少年キング」の雑誌の格以上に力を貸していたという。しかし、マンガ人口が増加した時代にあって、他誌が急成長して150万部以上を売り上げる中、「少年キング」は部数的に引き離された。
さらにライバル誌だった「週刊少年チャンピオン」が『ドカベン』『ブラック・ジャック』『がきデカ』と1970年代半ばに大ヒットを連発して大躍進。200万部以上を売り上げて、「週刊少年ジャンプ」を抑えて、一躍少年漫画誌のトップに登りつめる。「週刊少年チャンピオン」の版元が中堅の秋田書店だったことから、同じく中堅出版社の少年画報社は刺激を受けて、「少年チャンピオン」に続けとばかり1975年1月の「少年キング」の誌面の改革を断行。
しかしこれが裏目に出て失敗し、逆に長期低迷を招いてしまう。編集部を一新して、新しく投入された青年漫画誌「ヤングコミック」編集長が、根強い支持を受けていた連載を次々と打ち切ったことで読者離れを起こし、一方、青年誌で活躍していた漫画家による新連載が新規読者を開拓できず、1年で約20万部が減る激減となった。1977年に始まった松本零士のヒット作『銀河鉄道999』で一時的に持ち直すが、それも同作の連載終了までだった。休刊した年の1982年には、部数が22万部にまで下落。採算ラインの30万部を割り込み、本誌の赤字を連載をまとめた単行本で補填するという状況で、遂に休刊に至った。
1970年代には望月三起也の『ワイルド7』、楳図かずおの『猫目小僧』、荘司としおの『サイクル野郎』が牽引。SFとアニメブームが沸き起こった1970年代末から1980年代にかけては、松本零士の『銀河鉄道999』、聖悠紀の『超人ロック』が人気連載だった。「少年KING」時代の看板連載だった吉田聡の『湘南爆走族』は「ヤングキング」が引き継いだ。
「少年キング」でデビューを飾った作家には、小池一夫、池上遼一、北見けんいち、神戸さくみ、五十嵐浩一、巻来功士らがいる。