小宮山友晴
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小宮山 友晴(こみやま ともはる、?-天正10年3月9日)は戦国時代の武将で武田家家臣。父は二俣城で戦死した小宮山昌友。
使番十二人衆の一人。弟に拈橋、小宮山昌親、小宮山忠道がいる。内膳佑を称した。
設楽原の戦い以降、跡部勝資・長坂光堅、秋山摂津守ら武田勝頼の側近衆と仲が悪く、長篠の戦いで敵前逃亡した御親類衆に対しても厳しい態度で臨み、時折批難した。そして長坂の讒言等もあり、主君・武田勝頼からも疎まれることが多かったとされる。
それでも彼は1582年から始まる武田征伐において、武田氏御親類衆の穴山梅雪・木曽義昌は寝返り、武田信廉や武田信豊は一戦も弓を交えず早々と逃亡する状況の中においても自身の忠節を貫く為に天目山に駆け付けた。
友晴は奮戦するも衆寡敵せず鳥居畑で討死を遂げた。
友晴は小宮山氏を代表して累代の高恩に報いたいと考え、それを果たすために甲斐武田氏の滅亡に殉じる道を選んだのである。
[編集] その後の小宮山氏
友晴の弟、中山広厳院(笛吹市)の僧になっていた拈橋が、命運尽きた勝頼一行の遺骸を弔ったと伝えられ、後に家康はこの地(甲州市田野)に景徳院を建立し拈橋を住持とした。拈橋は今に残る勝頼と運命をともにした「殉死者」の法名を全て付けたとされている。
法名は景徳院では忠叟道節居士、北杜市村山西割の泉竜寺(小宮山忠道乃至その子孫が建立)では小林道林である。
なお、幕末の儒学者として有名な藤田東湖は、友晴のことを「天晴な男、武士の鑑、国史の精華」といってその忠臣ぶりを絶賛している。