宝山乾珍
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宝山乾珍(ほうざんけんちん、応永元年(1394年) - 嘉吉元年12月25日(グレゴリオ暦1442年2月5日))は室町時代の僧。足利直冬の末子といわれ、長兄冬氏を除き兄弟は皆僧籍にあったと伝わる。
[編集] 略歴
幼少時に出家、絶海中津の弟子となる。景徳寺、等持寺などの住持を経て、永享4年(1432年)3月29日、39歳の時、相国寺第44世住持となる。これは異例の早さであり、足利氏という出自によるものか、乾珍個人の資質によるものか明らかでない。その後も、永享5年(1433年)8月19日、相国寺鹿苑院塔主、永享7年(1435年)10月4日、天竜寺第94世住持、翌年3月24日に相国寺住持(再任)に任ぜられている。
嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱で甥にあたる足利義尊が赤松満祐に擁立され、義尊の弟(俗名足利義将)の首級が京都に送られて来た7月末以降に鹿苑院主を辞任。理由は近親者が乱に関係したためらしいが、乾珍自身もその年の末、12月25日に没している。急な死はその裏に何か事件があったことを示唆している。享年48。死後、円乗宏済禅師と謚された。
[編集] 参考文献
- 瀬野精一郎 『人物叢書 足利直冬』(吉川弘文館、2005年) ISBN 464205233X