宇佐八幡宮神託事件
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宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)は、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」とのの託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされる事件である。
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[編集] 前史
弓削道鏡は法相宗の僧で、孝謙上皇の病を治したことからその信頼を得て出世。764年、上皇と対立した最高実力者藤原仲麻呂が反乱を起こす(恵美押勝の乱)と、上皇は仲麻呂の専制に不満を持つ貴族たちを結集して仲麻呂を滅ばした。乱後、上皇は仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁天皇を武力をもって廃位して淡路国に流刑にすると自らが再度天皇に復位することを宣言した。復位した称徳天皇のもとで道鏡はその片腕となり、765年には僧籍のまま太政大臣となり、翌66年には法王となる。
だが、反仲麻呂派の貴族の大勢はあくまでも仲麻呂の政界からの排除のために上皇に協力しただけであり、一度は出家して尼になった筈の孝謙上皇の復位やましてや道鏡の政界進出に賛同したわけではなかった。おまけに称徳天皇は独身であったために子供はおらず、皇太子は立てられなかった。このため、称徳天皇後の皇位は誰が継ぐのかが貴族達の最大の関心事となった。天皇もこの空気を敏感に察しており、淡路に流された廃帝(淳仁天皇)の謎の死、和気王の突然の処刑、天皇の異母妹不破内親王の皇籍剥奪など、皇族に対する粛清が次々と行われていき、皇位継承問題は事実上のタブーとなっていった。
[編集] 2つの神託
769年5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と太宰大弐習宣阿曾麻呂は、「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」という内容の宇佐八幡の神託を奏上し、自ら皇位に就くことを望む(続紀没伝)。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。
清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が 禰宣の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」という大神の神託を大和に持ち帰り、奏上する。
道鏡を天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介にいったん左遷、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国へ配流され、広虫も「別部狭虫」と改名させられて処罰された。
770年に女帝が死去すると、皇太子は白壁王となり、道鏡は下野国へ配流された。
[編集] この事件に対する疑問説
この事件については歴史書『続日本紀』に詳細が書かれ、道鏡の政治的陰謀を阻止した和気清麻呂が「忠臣の鑑」として戦前の歴史教育においてしばしば取り上げられてきたが、既に江戸時代に本居宣長によって一連の事件の流れに懐疑的な説が唱えられ、近年には『続日本紀』の記事には光仁天皇の即位を正当化するための作為が含まれている(神託には皇位継承については触れられていない)とする説も存在する。
近年の中西康裕らの説では、道鏡が実際に皇位を狙ったとすれば極刑に該当する重罪であるにも関わらず、称徳天皇崩御後の下野への流刑はあまりにも罰としては軽く、浄人ら一族関係者にも死罪が出ていないことから皇位継承を企てたという説は「後付」ではないかとされる。その説によれば、最初の神託は皇位継承以外の出来事に纏わる(恐らくはこの年に行われた由義宮(道鏡の故郷である河内国弓削)遷都に関する)ものであって、これに乗じた藤原氏(恐らくは藤原永手とその弟の藤原楓麻呂か)が和気清麻呂を利用して白壁王あるいはその子である他戸王(称徳天皇の父・聖武天皇の外孫の中で唯一皇位継承権を持つ)の立太子するようにという神託を仕立て上げようとしたことが発覚したために清麻呂が流刑にされたとする可能性も指摘されている。しかし、神託由義宮遷都説は根拠が憶測の域を越えるものではないとする見方もある。
その一方で、称徳天皇や道鏡が清麻呂を流した事で2番目の神託を否認した以上、最初の神託に基づいて道鏡への皇位継承を進めることも可能であった筈なのに事件以後に全くそうした動きを見せていない事や逆に藤原氏らの反対派がこの事件を大義名分に天皇や道鏡排除に積極的に動いていない事から、道鏡がこの事件に深く関わっていたとする証拠を見出す事は困難である。
[編集] 関連項目
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