大御所時代
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大御所時代(おおごしょじだい)は江戸時代、寛政の改革と天保の改革の間の期間で、幕府第11代将軍徳川家斉の治世。家斉は隠居して大御所となってからも政治の実権を握っていたため、後の人が「大御所時代」と呼ぶようになった。また同時期の代表的な元号より文化文政時代(ぶんかぶんせいじだい)、あるいはこれを略した化政時代(かせいじだい)という呼称が用いられる場合がある。
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[編集] 概要
1781年一橋家から江戸城に入り、1787年将軍となった家斉は、1793年に松平定信が免職され、定信の後老中首座になり、「寛政の遺老」といわれた松平信明が1817年病死し政治の舞台から去ると、自らの手で政治を始めた。
家斉の治世は、信明の後任で老中・水野忠成が賄賂政治を行って政治が腐敗し、家斉自身も豪奢な生活をしていた為、家斉の子、徳川斉順を養子とした和歌山藩などで一揆が続発し、人々の不安が高まった。しかし、江戸城で安穏と暮らす将軍家斉に、その不安が届くはずもなかった。忠成の死後、浜松藩主水野忠邦が老中となり幕政改革を試みたが、家斉のもとでは空回りが続くだけであった。
家斉は将軍在職50年の後、1837年に世子家慶に将軍職を譲り隠居してからも実権を持ち、1841年1月に69歳で死去するまで続いた。家斉の死後、幕政建て直しのため、水野忠邦による天保の改革が始まる。
大御所時代の代表的な出来事にお蔭参り、大塩平八郎の乱などがあった。
大御所時代は、家斉が在職中の天明、寛政、享和、文化、文政、天保の各元号のなかで、文化-天保までをさす為、文化文政時代(化政時代)も呼ばれている。この時代は、江戸を中心に、化政文化が栄えた一方、江戸幕府が衰退する始まりでもあったのである。天保の改革の影響は大きく、厳しい統制の時代になったため、昔を懐かしんだ人々が大御所時代と呼び始めたともいわれる。
[編集] 文化文政期の政治
[編集] 文化期
松平定信の辞職後も、松平信明、戸田氏教、家斉の父一橋治済らが政治の実権を握っていたので、家斉自身が政治を行うことはできなかった。
[編集] 文政期
1817年、信明が亡くなり、1823年、治済が亡くなると、家斉は、水野忠成に政治を任せ、自らも1841年亡くなるまで、親政を行った。しかし、幕府の財政は悪化した。
[編集] 年譜
- 1786年 第10代将軍徳川家治死去。50歳。田沼意次、老中を辞職。
- 1787年 徳川家斉、第11代将軍に就任。松平定信による寛政の改革始まる。
- 1793年 家斉、松平定信を免職。松平信明が老中首座となる。徳川家慶誕生。
- 1800年 伊能忠敬、蝦夷地の測量を命じられる。
- 1802年 「東海道中膝栗毛」が刊行される。
- 1804年 絵草子の出版、販売を制限。9月、レザノフが来航。
- 1808年 イギリス軍艦フェ-トン号、長崎に入港。
- 1817年 松平信明、死去。水野忠成、老中首座となる。
(この頃「南総里見八犬伝」が刊行される)