大和川
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大和川 | |
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近鉄道明寺線の鉄橋 |
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延長 | 68 km |
水源の標高 | 822 m |
平均流量 | 13.51 m³/s |
流域面積 | 1,070 km² |
水源 | 貝ヶ平山(奈良県) |
河口 | 大阪湾(大阪府) |
流域 | 奈良県・大阪府 |
大和川(やまとがわ)は、奈良県、大阪府を流れる一級河川。流路延長68km、流域面積1,070km²。
目次 |
[編集] 地理
奈良県桜井市の北東部、貝ヶ平山(かいがひらやま、標高822m)近辺を源流としており、上流部では初瀬川と称される。奈良盆地を西に向かって流れつつ、佐保川、曽我川、葛城川、高田川、竜田川、富雄川など盆地内の大半の河川を生駒山系の手前までに合わせる。生駒山系と葛城山系の間を抜けて、大阪平野にでると柏原市で南河内を流れてきた石川と合流してまっすぐ西へと流れ、大阪市と堺市の間で大阪湾に流れ込んでいる。
奈良県から大阪府へ抜ける峡谷は、「亀の瀬」と呼ばれる地滑り多発地帯。同区間を走る関西本線(大和路線)や国道25号も過去に度々被害を受け、関西本線は路線を付け替えている。
また流域の奈良県などで下水道普及が遅れているなどの原因で、全国河川水質ワースト1である。現在は以前と比べて水質が大幅に改善されており、環境省の水質基準も満たしている。
[編集] 流路変更の歴史
かつては生駒山系を抜けて現在の柏原市付近で石川と合流すると、その流れに乗るように北へ流れ、河内平野に大きな湖(草香江(くさかえ)、または河内湖)をつくって古い時代の淀川を合わせ、上町台地の北で海へと出る流路を為していた。河内湖は次第に土砂により埋まり、河内平野へと変わっていったが、基本的にはこの一帯は上町台地にさえぎられた低い湿地帯であり、江戸時代までは大和川の分流や多くの池を残していた。
江戸時代半ばごろまでの古い大和川は、柏原市の北で長瀬川(久宝寺川ともいう、本流)・楠根川・玉串川(吉田川と菱江川に分流)など幾筋にも分かれ、吉田川など一部は寝屋川が注ぎ込む深野池(大東市周辺)・新開池(東大阪市の鴻池新田周辺)の両池に注ぎこんでいた。これらの池の水と長瀬川本流は現在の大阪市鶴見区放出周辺で合流し、さらに淀川支流の古川、同じく河内平野を流れる平野川と次々合流しながら上町台地の北(現在の天満橋の辺り)でやっと淀川(大川)本流に合流していた。淀川はそこからまた安治川や木津川など多くの川に分かれ、デルタ地帯を形成しながら海へ流れていた。
これら大和川の支流は土砂が堆積した天井川で、たびたび河内平野は氾濫の被害にあった。河内平野の洪水防止や農業開発を目的として流路を西へ付け替える構想は古くは奈良時代以前からあり和気清麻呂により実際に工事も行われたが、上町台地の高さの前に挫折していた。江戸時代になると度重なる被害の大きさに、河内の大和川流域の村々から付け替えの機運が起こり、現在の東大阪市にあった今米村の庄屋、中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ何度も幕府に請願し続けた。
新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、ついに付け替え工事が1704年(宝永元年)に行われ、わずか8ヶ月で大和川は現在のように堺に向け西流するようになった。
大和川の旧流路にあたる中河内では河川敷の跡地や大きな池の跡地が新田(深野池は深野新田などに、新開池は鴻池新田などに)となり、とくに川床跡の砂地に適した木綿栽培や綿業がさかんになった。一方、新しい大和川の通った現在の松原市、大阪市南部の平野区などは多くの農地を失った上、もとあった川が新しい川に分断されて、上流側では大和川手前で水があふれ下流側では水量が減り、困窮する結果となった。また、大量の土砂が大坂に流れなくなった代わりに堺港に運ばれるようになり、大坂の河川は若干港湾機能を回復するが堺の港湾都市としての地位は低下した。
1871年(明治4年)9月、それまで堺の街の中を通っていた摂津国と和泉国との国境が大和川に変更された。
2004年は大和川付け替え工事(1704年)から300周年にあたるため、様々な行事が行われた。
[編集] 流域の市町
- 奈良県
- 大阪府
[編集] 主な支流
[編集] 外部リンク
- 大和川河川事務所(国土交通省近畿地方整備局)
- 大和川付替え300周年