大友氏泰
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大友 氏泰(おおとも うじやす、1321年(元亨元年) - 1362年(正平17年/貞治元年))は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。大友氏の第7代当主。父は第6代当主・大友貞宗(氏泰は五男)。母は少弐貞経の娘。
幼名は千代松丸。元弘3年/正慶2年(1333年)、父が鎮西探題・北条英時(赤橋英時)を攻める前、決死の覚悟で幕府に反逆しようとする父から家督を譲られた。五男である氏泰に家督を譲ったのは、当時成人していた四男までの息子より、幼少の氏泰に譲っておけば、仮に自身が敗死してもその後、幕府から咎められて取り潰される可能性は低いであろうと考えたためだと言われている。同年12月、父が京都で急死したため、正式に当主となったが、幼少だったために兄・大友貞載の補佐を受けた。足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて九州に落ち延びてきたときは、尊氏の再挙に貢献した。その功績により室町幕府開設後、豊後の他に肥前・豊前・日向の守護に任じられた。
正平17年/貞治元年(1362年)に死去し、家督は弟の大友氏時が継いだ。