土方雄隆
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土方 雄隆(ひじかた かつたか)は、江戸時代の大名。陸奥国窪田藩の第3代(最後)の藩主。
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 寛永19年(1642年) | |||
死没 | 元禄4年(1691年) | |||
別名 | 雄高、監物(別名) | |||
官位 | 従五位下、山城守、伊賀守 | |||
藩 | 陸奥窪田藩主 | |||
氏族 | 土方氏 | |||
父母 | 父:土方雄次、母:内藤忠興の娘 | |||
兄弟 | 兄:土方雄信、弟:土方雄賀、土方貞辰 | |||
妻 | 正室:小出吉重の娘 | |||
子 | 養子:土方貞辰 |
寛永19年(1642年)、第2代藩主・雄次の次男として生まれる。万治2年(1659年)に徳川家綱と拝謁し、延宝7年(1679年)11月27日の父の隠居により後を継ぐ。このとき、弟の雄賀に2000石を分与したため、1万8000石となる。同時に従五位下、山城守に叙任し、天和元年(1681年)に伊賀守に叙任する。
天和2年(1682年)、雄隆が帰国したときに家督問題が起こった。雄隆が次男でありながら家督を継げたのは、兄が病弱だったからである。しかし雄隆は子が無かった。このため、弟の貞辰を養子として後を継がせようとしたが、家臣団は本来なら後を継いでいた雄信の子・土方内匠に後を継がせるように言い始めた。このため、家臣団が両派に分かれて対立し、貞辰は自分こそが家督を継ぐべきと幕府に盛んに運動する。おまけに雄隆の側室射殺事件まで起こす有様となり、これを知った幕府によって藩政が良くないとして貞享元年(1684年)7月22日、窪田藩は改易となり、藩主・土方雄隆は越後国村上藩の榊原政邦預かりとなった。貞辰は伊勢国久居藩の藤堂高通預かりとなり、内匠は八丈島へ流罪となった。家臣の多くや、騒動の仲裁を受けたがそのまま放置した筑後松崎藩主有馬豊祐も連座して処罰された。
1691年に配所で死去。享年50。墓所は大阪府貝塚市の青松寺。
- 土方氏(窪田藩3代)藩主
- 1679~1684
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- 先代:
- 土方雄次
- 次代:
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