土井利貞
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 寛保元年10月7日(1741年11月14日) | |||
死没 | 文化4年11月5日(1807年12月3日) | |||
別名 | 田村岩之助(初名)、千之助(幼名) | |||
戒名 | 大信院前能州為誉道元利貞居士 | |||
墓所 | 東京都府中市紅葉丘の誓願寺 福井県大野市錦町の善導寺 |
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官位 | 従五位下、能登守 | |||
藩 | 越前大野藩主 | |||
氏族 | 土井氏 | |||
父母 | 父:土井利寛、母:坂上氏(授光院) | |||
兄弟 | 弟:土井利邦 | |||
妻 | 正室:酒井忠恭の娘・清光院 側室:真日院、富田氏 |
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子 | 養子:土井利義、2男5女(土井利濱、 お松(土井利義室)) |
1741年10月7日、第3代藩主・土井利寛の長男として江戸筋違橋の上屋敷で生まれる。しかし利貞は、利寛と側室の坂上氏の間で「できちゃった結婚」をして生まれた息子であったことから、家老の田村俊似に預けられて養育され、名も田村岩之助と名づけられた。
1745年5月、土井に復姓することを許され、土井千之助と名乗る。12月には土井家の世子に指名された。1746年、父の死去により後を継いで藩主となる。しかし幼年のため、しばらくは田村俊似が補佐を行なった。1755年12月、従五位下、能登守に叙任する。
1759年に大坂加番となる。藩政においては洪水や凶作、火事が連年のように相次いで財政難に見舞われた。このため、1783年に勝手向御用掛を創設して財政改革を行なうが、厳しい年貢増収を行なったために1787年6月や1789年閏6月に百姓一揆が起こって失敗した。また、面谷鉱山の開発も行なったが失敗した。