四人囃子
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四人囃子(よにんばやし)は、日本のロックの黎明期において活躍した、1970年代を代表するプログレッシブ・ロックバンドである。しばしば「洋楽ファンをもうならせる演奏技術、楽曲センスを持つ」と評され、その存在は日本のロック史において半ば伝説化してる。
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[編集] メンバー
- 森園勝敏(ギター、ヴォーカル)
- 岡井大二(ドラムス)
- 中村真一(ベース) ※脱退
- 坂下秀実(キーボード)
- 佐久間正英(ベース)
- 茂木由多加(キーボード) ※脱退
- 佐藤ミツル(ギター、ヴォーカル)
- 末松康生(作詞) ※脱退
[編集] 歴史
結成当時のメンバーは、森園勝敏(ギター、ヴォーカル)、中村真一(ベース) 、岡井大二(ドラムス)、坂下秀実(キーボード)である。1969年、まだ高校生だった森園と岡井が出会い、中村を加えた「ザ・サンニン」として活動。その後、坂下が加わり「四人囃子」としての活動を始めた。
1973年に、東宝芸音株式会社よりサウンド・トラック「ある青春/二十歳の原点」を発売、プレデビューし、1974年に東宝レコードから「一触即発」をリリースして本格デビューを果たす。
ピンク・フロイド、EL&P等の海外のプログレや、ディープ・パープル等のハードロックの影響も感じさせる「一触即発」の発表は、当時まだ黎明期にあった日本のロックシーンに多大な衝撃を与えた。
ファーストアルバムの発売後、キーボードの茂木由多加が参加。その後、ベースの中村が脱退し、代わりに佐久間正英が加入。5人体制でシングル「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」('75)を発売。茂木が脱退して後セカンド・アルバムの「ゴールデン・ピクニックス」('76)を発売する。
しかし、アルバム発売後にフロントマンだった森園が脱退。バンド存続の危機に見舞われるも77年に佐藤ミツルを新ギター・ヴォーカルとして迎え、バンドは活動を続ける。「PRINTED JELLY」('77) 、「包(bao)」('78)、「NEO-N」('79)(キーボードは坂下に代わり茂木)を発売する。
その後、バンドは長らく活動休止するが、1989年には佐久間・岡井・坂下による「DANCE」 を発売。森園と佐藤も含めた5人で再結成ライブを行い、ファンを歓喜させた。
1996年にはオフィシャルサイトを設立。散発的にライブを重ね、2001年末には全曲未発表音源 (未発表曲/未発表ヴァージョン)による5枚組みボックスセット「四人囃子 BOX SET-From The Vaults-」を発売。 2002年には森園・岡井・坂下・佐久間の四人で精力的な活動を展開、スモーキー・メディスソや頭脳警察と競演したほか、フジ・ロック・フェスティバルへの出演を果たす。同年末には入手困難であった音源全10タイトルが再発売された。また、翌2003年には来日したProcol Harumとの競演も実現している。
[編集] 音楽的特徴
四人囃子の音楽的特徴は、幾度かのメンバー交代の影響もあり、かならずしも一定ではない。初期の特徴としては、本場のプログレッシブ・ロックやハード・ロックの影響を多大に受けたハードで多様なサウンド、作詞家の末松康生の情緒あふれるノスタルジックで非現実的な詞世界、時には10分以上にも及ぶ大作主義があげられる。(一触即発、おまつり、泳ぐなネッシー等)
後に佐藤ミツルが加入してからは比較的ポップな路線となり、また「NEO-N」や「DANCE」は佐久間のテクノ・エレクトロニカ志向が色濃く反映されている。初期と後期では殆ど別のバンドといってもよいほどそのサウンドは変化しており、ファンの間でも好みが分かれる点でもある。
[編集] ディスコグラフィ
※複数アーティストによるコンピレーションを除く
スタジオ・アルバム
- 「ある青春/二十歳の原点」('73年 プレデビュー・サウンドトラック)
- 「一触即発」(74年)
- 「ゴールデン・ピクニックス」(76年)
- 「PRINTED JELLY」 (77年)
- 「包(bao)」(78年)
- 「NEO-N」(79年)
- 「DANCE」(89年)
ライブ・アルバム
- 「'73四人囃子」(78年)
- 「LIVE FULL-HOUSE MATINEE」(89年)
- 「四人囃子 2002 LIVE」(02年)
シングル
- 「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ / ブエンディア」(75年)
- 「レディ・ヴァイオレッタ(LPと別テイク)/ カーニバルがやってくるぞ」(76年)
- 「拳法混乱(カンフージョン)/ ほろ酔いの伊達男」(79年 サウンドトラック)
ボックス・セット
- 「From The Vaults」(01年)