名鉄モ510形電車
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モ510形電車(も510がたでんしゃ)は、名古屋鉄道がかつて保有していた路面電車車両の一形式である。
大正時代末期の1926年(大正15年)に製造され、80年近くに渡り一貫して岐阜市周辺で運用され続けた極めて長命な電車であったが、運用路線の全廃に伴い2005年(平成17年)に現役を退いた。
[編集] 沿革
1926年(大正15年)、美濃電気軌道(通称「美濃電」。後の名鉄美濃町線ほかを当時運営していた会社)が、セミボ510形として5両を日本車輌製造で製造し投入した。同社初の半鋼製ボディを採用したボギー電車である。形式の「セミボ」とは「セミスチール・ボギー」の略。路面区間での運用もあったが、高速電車規格のイコライザー台車を履いた高床構造であり、アメリカにおいて1900年代から1920年代に盛んだった「インターアーバン」と言われる市内・郊外直通の電車群と共通性のある電車である。
アメリカの電車の影響で大正時代を通じて日本の電車界で流行していた、正面を半円筒型の5枚窓とする流線型ボディを持つ。このデザインは、先行して1923年(大正12年)に美濃電が増備していた木造ボギー車BD505形(のち名鉄モ520形)におおむね準拠したものである。2扉車だが、ドアの戸袋窓は当時の電車で時折見られた楕円形で、正面形状共々この電車のデザインのアクセントになっていた。側窓位置自体も腰高な印象のモ520形より低く、安定感のある外観となった。製造当初の電装部品はイギリスのデッカー(イングリッシュ・エレクトリック社)系で、直接制御方式・44.8kwモーター2個という控えめな仕様であり、さほど速い電車ではなかった。
当初は鉄道線の笠松線(現・名鉄名古屋本線の名鉄岐阜駅~笠松駅間)で運用されたが、美濃電が1930年に名岐鉄道に合併された後しばらくしてから、軌道線の美濃町線へ主な運用路線を移す。名岐鉄道が愛知電気鉄道との合併で名古屋鉄道となった後も美濃町線系統に留まって、戦後まで長らく運用された。集電装置は当初ポールであったが、戦後にビューゲル化されている。
1967年(昭和42年)に岐阜市内線と揖斐線との直通運転が開始されるに当たり、車齢40年を超える古典車でありながら、木造車のモ520形とともに直通運転用の車両として抜擢されることになった。
この年と翌年の間に5両すべてがロングシートから転換クロスシートに改造、ドアステップはドア連動の自動折り畳みとされた。さらにこの運転にあたっては、揖斐線内での高速性能と付随車牽引力を確保するため、モ510形を4個モーター・間接制御仕様に改造することになり、他形式から流用した中古の63.4kWモーター4基と間接非自動制御器(HL制御)を装備してギア比も高速化、サイズの割には強力駿足な電車となった。これに合わせて集電装置もビューゲルからパンタグラフに変更、高速対応としている。またモ520形は従来の直接制御器・2個モーターを残したまま、新たに片側運転台のみ間接非自動制御器用マスコンを増設し、単独走行可能ながらモ510形との併結時は制御付随車として使用できるようになった。
当初は揖斐線内では併結運転、岐阜市内線ではモ520形が単独で直通という形態が取られたが、のちには2両固定編成で市内線に直通するようになり、モ520形は実質専属のトレーラーとなった。揖斐線内における急行運転では、老骨にもかかわらず直通運転開始当初65km/h、モ770形登場後は70km/hの最高速度で快走した。
名鉄は600V電化の支線区には旧型車のみを多く充てたため、以後も上記の状態での運転が長く続いた。繁華街の柳ヶ瀬界隈の狭い路上を古風な電車の2両編成が通り抜ける様は、岐阜の名物であった。
しかし冷房もなく、モ520形に至っては木造車の外側に鋼板を貼り付けただけの簡易鋼体化車(偽スチール車とも揶揄された)で老朽化も著しかったことから、1987年(昭和62年)に新造車のモ770形電車が投入されると、まず1988年(昭和63年)までにモ510形の2両とモ520形全車が廃車となった。このため残存するモ510形3両で適宜編成を組んで運用する形になった。この1988年(昭和63年)、モ510形は鉄道友の会からエバーグリーン賞を受賞している。
その後1997年(平成9年)のモ780形投入により、モ510形の定期運用はなくなり、同車は予備車扱いになった。
2000年(平成12年)にも1両(512号)が廃車となって美濃町線の旧美濃駅(1999年廃止)へ静態保存のため移されたが、残り2両は2005年(平成17年)の岐阜600V線区(岐阜市内線・揖斐線・美濃町線・田神線)全廃まで、他車両の検査に伴う代走や団体専用列車・臨時列車用として運用された。
その後、残った2両のモ510形は下記のように保存展示されることとなった。