合肥の戦い
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合肥の戦い(がっぴのたたかい)は、中国三国時代に、魏の南方の要衝・合肥を巡って魏と呉の間で行われた戦い。
215年に起こった戦いが有名で、蜀の劉備が呉の孫権に荊州の一部返還を求めた際、魏を攻めるように依頼したことから始まった。孫権率いる呉の大軍が張遼を大将とする少数の魏軍に大敗を喫したことで知られている。
[編集] 張遼来々
孫権はこの戦いで大将自ら中軍に属し、小師橋を渡り楽進の軍に迫った。楽進は凌統を追い詰めるが、呉将甘寧の矢を顔に受け退却する。すかさず孫権はそれを追う。そこに張遼、李典らが挟み撃ちを仕掛けるように攻撃した。 伏兵により士気低下した孫権の軍はすぐさま退いたが、既に渡ってきた橋は落とされていた。窮地に陥った孫権に味方が馬を飛ばすように助言した。孫権は言われたとおり馬を飛ばし、川を飛び越えて難を逃れることが出来た。
難を逃れた孫権だったが、既に大軍の呉軍は総崩れとなった。そこに曹操率いる援軍が到着、戦の初めを想像させないような形勢逆転となり、魏軍は勝利した。呉の武将甘寧が奇襲(濡須口の戦い)で一矢報いる。この功により甘寧は「魏に張遼あらば、呉に甘寧あり」と称された。が、ここでまた孫権が危うい状況に陥った。呉の武将周泰の決死の活躍により孫権は窮地を脱する。
その後孫権は曹操と和解した。この戦いで張遼の名は江東に轟き、「張遼がくるぞ」と言えば幼い子供までもが恐れたことから「泣く子も黙る張遼」と恐れられた。
また合肥の戦いは赤壁の戦い以前にも発生しており、呉の武将太史慈が張遼の計略により戦死したともいわれている。 呉にとっては因縁深い戦場となった。
なおこの後234年にも呉は合肥城の後方に建設された合肥新城を三路より攻めるが、明帝曹叡の親征によって苦戦。さらには疫病が横行し、諸葛瑾率いる水軍が火計により敗走。莫大な量の船舶、兵糧を失った。