反応速度論
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反応速度論(はんのうそくどろん、chemical kinetics)とは反応進行度の時間変化(速度)に関する物理化学の一分野である。物体の速度を扱う力学との類推で、かつては化学動力学と呼ばれていた。反応速度論の目的は反応速度を解析することで、反応機構や化学反応の物理学的本質を解明することにあった。今日においては原子あるいは分子の微視的運動状態は、巨視的な反応速度解析に頼ることなく、量子化学などの理論に基づき計算化学的な手法で評価する分子動力学によって解明できるようになっている。それ故、今日の反応速度論は学問的真理の探求よりは、実際の化学反応を制御する場合の基礎論理として利用されている。
尚、反応速度の求め方については記事 反応速度に詳しい。
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[編集] 反応速度のモル濃度依存性
化学において、反応速度が系統的に研究されたのは19世紀中旬以降であり、1850年ドイツの化学者ウィルヘルミーによる酸触媒存在下にショ糖の加水分解反応の速度についての研究が反応速度研究の先駆けとされる。ウィルヘルミーは加水分解によりショ糖の旋光度が右旋性から左旋性へと連続的に変化する性質を利用して物質量変化を観測した。その結果、実験条件を一定にすると反応速度はショ糖濃度に比例することを見出した(反応速度・擬1次反応を参照)。
1862年にはフランス人化学者マルセラン・ベルテロとL・サンジルが酢酸エチルのエステル化反応と加水分解反応の反応速度を解析して、酢酸とエタノールから酢酸エチルが生成する速度は酢酸濃度とエタノール濃度の積に比例し(反応速度・2次反応を参照)、酢酸エチルが加水分解する速度は酢酸エチル濃度に比例する(反応速度・擬1次反応を参照)ことを実験的に見出した。
[編集] 質量作用の法則
1864年、ノルウェーのグルベルグ (Cato Maximilian Guldberg) とP・ボーゲは、反応速度について理論構築を試みた。化学反応が物質間のある種の親和力により引き起こされ、その親和力は反応する分子の周囲にある物質量に比例するとして反応速度を定式化して、化学平衡の関係式を導いた。 反応式において反応速度をモル濃度のべき関数で表すと
平衡状態においては正反応と逆反応の速度は一致するので。(v = v')
グルベルグとボーゲは、化学平衡式とその基となる反応速度式が物質量のみで決定付けられることからこの関係を質量作用の法則(しつりょうさようのほうそく、Law of mass action)と呼んだ。
尚、質量作用の法則における化学平衡式は常に成立するものの、導出に用いた反応速度式自体は複合反応の場合や高い濃度においては乖離を示した。それは複合反応は多段階で進行するのでグルベルグとボーゲの仮定が成立せず、単純反応の場合であっても反応速度式の濃度項は実際には熱力学的影響を考慮した活動度(活量)で補正する必要がある為である。一方、化学平衡式は熱力学の化学ポテンシャルから導出された式も質量作用の法則に基づいた式も同一の式となるので常に成立する。
実際には、グルベルグとボーゲが仮定したように化学量論係数()と速度式のべき係数とは必ずしも一致しないが、巨視的現象としては一般に反応速度は物質量(またはモル濃度)のべき関数で表現される。(記事 反応速度に詳しい)
[編集] 反応速度の温度依存性
一般に反応速度は温度により強い影響を受ける。反応の種類によって程度は異なるが、温度が10度上昇すると反応速度は2~3倍程度増大する。
[編集] アレニウスの式
1889年、スウェーデンの物理化学者アレニウスは反応速度定数 k の対数と絶対温度の逆数1/Tとの間に1次線形(直線)関係が成り立つことを見出した。
アレニウスは化学反応が一定値以上のエネルギーを持つ分子により引き起こされると仮定し、温度が上昇すると高いエネルギーを持つ分子が指数的に増大する為であると考えた。
- k = Ae − B / T
今日では後述の衝突論から導出された次の式をアレニウスの式と呼ぶ。
-
- k: 反応速度係数
- Ea : 活性化エネルギー
- R: 気体定数
- T: 絶対温度
[編集] 衝突説
気体であれ液体であれ、常時、分子は互いに衝突している。分子同士が非弾性衝突することで運動エネルギーが内部エネルギーに転換される。結合の生成エンタルピーは一定の値を持つので、非弾性衝突で転換されるエネルギーが一定以上の場合に初めて、分子結合の切断に利用することが可能となる。これがアレニウスが想定した活性化エネルギーの分子動力学的な解釈である。すなわち、化学反応が生じるには
- まず、反応する分子同士が衝突する必要がある。
- 適当な向きと勢いで衝突することで運動エネルギーが内部エネルギーに転換できる必要がある(非弾性衝突)。
- 衝突で失われる運動エネルギーは、化学結合を切断あるいは組み替えるのに十分な量が必要である(活性化エネルギーの閾値)。
以上の条件を満たす必要があると考えられる。このように特定の条件を満たす分子同士の衝突が化学反応の原因とするモデルを化学反応の衝突説(しょうとつせつ、collision theory)と呼ぶ。衝突説モデルによると気体分子の運動方程式より、化学反応の温度依存性(アレニウスの式)を説明することが可能である。
1918年イギリスのマクルイス (W. C. McLewis) は2分子反応の反応速度温度依存性を衝突説で次のように説明した。気体分子運動論より、単位体積、単位時間内に生じる2種の分子A、Bの衝突回数NABは次の式で示されるようにそれぞれの分子の数密度ρA、ρBに比例し比例係数ZABは次のように定式化される。
- NAB = ZABρAρB
-
- DAB : 分子ABの半径の和
- mA : 分子Aの分子量
- mB : 分子Bの分子量
- T : 絶対温度
次に反応を引き起こすエネルギーの閾値をとすると、気体分子運動論より以上のエネルギーを持つ分子の割合は、
一方、2分子反応の2次速度式はであるが、衝突で必ず反応が起こると仮定すると、反応進行度は衝突回数と同義であるから速度定数kはアボガドロ数NAを使って次のように表される。
- k = NAZAB
これをDABと、衝突モデルの仮定である衝突の立体因子(steric factor)Pとエネルギー閾値の割合を係数として導入すると、
となる。したがって衝突説モデルの定義より、アレニウスの式にあるべき係数が活性化エネルギー(かっせいかえねるぎー、activation energy)に相当する。
マクルイスの反応する分子同士が衝突するモデルは反応次数が2次の反応については反応速度がそれぞれの物質量に依存することを説明付けることができるが、1次反応の振る舞いを直接説明できるモデルにはなっていない。また、マクルイスの単純な衝突モデルは気体反応についてはうまく説明できるものの、溶液中での反応の解釈やパラメーターとして導入した立体因子の意味や振る舞いあるいは影響度については、モデルからは何ら明確な指針は得られない。
[編集] 定常状態法
1922年イギリスのフレデリック・リンデマン (F. A. Lindemann) やデンマークのJ・A・クリスチャンセン (J. A. Christiansen) は、次のように衝突モデルを拡張することで1次反応を説明付けた。つまり、非弾性衝突自体は対称な過程であり内部エネルギーが増大した分子が再衝突により内部エネルギーを運動エネルギーとして奪い去られることは可能である。内部エネルギーが増大した励起分子A * と定常状態の分子Aとが変換する速度に対して、励起分子A * が目的の1次反応を引き起こす速度が十分に遅いならばA * とAとの間に平衡が存在している仮定することができる。
化学平衡式の定義より.であるから、
生成したA * は一定速度でXへと反応するならば、反応速度vは励起分子のモル濃度で表されるので、
となり、1次反応の速度式が導出される。
このようにクリスチャンセンが開発した、励起分子や反応中間体の生成に平衡が存在して、反応中間体等の濃度は時間変化しないと仮定して反応速度式を近似する手法は定常状態法(ていじょうじょうたいほう、method of steady state)と呼ばれる。
[編集] 遷移状態理論
衝突説を基に構築された反応速度論は、分子の反応させる原動力であるエネルギーがどのように供給されるかを明確にしたり巨視的な反応速度式の振る舞いを導出できたものの、実際に分子の結合がどのように組み変わって新しい分子が生成するかという化学反応の本質部分については明確な示唆を与えることができない。すなわち、反応速度式の立体因子や活性化エネルギーの成り立ちについては別のモデルによる理論構築が必要となる。
反応において活性錯合体の存在を想定して、活性錯合体が存在する遷移状態(せんいじょうたい、transition state)の振る舞いに関する物理化学的理論体系を遷移状態理論(せんいじょうたいりろん、transition state theory)と呼ぶ。遷移状態理論による熱力学的な解析により、立体因子と活性化エネルギーが持つ意味や反応機構の物理学的妥当性を明確にすることができる。遷移状態理論の成り立ちにおいては古典的な熱力学により定式化されたが、遷移状態理論で用いられたモデルを量子化学的に拡張することで、分子動力学へと展開した。
[編集] 活性錯合体
活性錯合体(かっせいさくごうたい、activated complex)とは遷移状態理論においてモデル化された、化学反応の素反応(過程)において原系(反応物側の系)と生成系(生成物側の系)へと連続的に変化する分子(または原子)の複合体(一時的な結びつきを持った集合体)である。反応中間体や遷移状態と呼ばれる状態がこれにあたる。
活性錯合体では結合あるいは乖離する分子(または原子)間の距離は様々に変化するが、その距離の変化に応じて、様々なポテンシャルエネルギーの値をとる。ポテンシャルエネルギーは厳密にはエントロピー変化を考慮して、ギブス自由エネルギー(定圧過程の場合)あるいはヘルムホルツ自由エネルギー(定積の場合)で表される。
一般に反応の遷移状態を表現する原子配置(内部座標)とポテンシャルエネルギーの関係を表したポテンシャルエネルギー曲面において、化学反応は原系から生成系へとポテンシャルエネルギーが局所的に最小となる経路を通過する。この反応が通るポテンシャルエネルギー曲面の経路が反応座標(はんのうざひょう、reaction coordinate)であり、狭義では活性錯合体は反応座標におけるポテンシャルエネルギーの極大点の状態を指す。
[編集] 絶対反応速度論
遷移状態理論のモデルに基づいて、ハンガリー生まれのマイケル・ポランニーとイギリスのエヴァンス (M. G. Evans) あるいはハンガリー生まれのウィグナー (E. P. Wigner) と合衆国のヘンリー・アイリングは反応速度論を発展させた。特にアイリングは1935年に、反応速度の絶対値が理論的に求められる反応速度論であることから絶対反応速度論(ぜったいはんのうそくどろん、theory of absolute reaction rates)と呼んだ遷移状態理論で体系付けた。今日の分子動力学はアイリングの絶対反応速度論にその源流を求めることができる。
今、つぎの反応
について考えるとき、絶対反応速度論では反応速度vは反応座標系で活性錯合体(遷移状態)を通過する頻度νと活性錯合体のモル濃度の積で定義される。アイリングは原系(A + BC)と活性錯合体( )はどの反応座標を通過するかの自由度は持つものの原系とは化学平衡の状態にあると仮定する。その場合、頻度νは遷移状態を通過する平均速度で表すことができる。
- ν = kBT / h
したがって反応速度kは次のように表現する。
-
- κ: 透過因子(補正係数)
速度係数は化学平衡式より
の関係にあり熱力学の化学平衡とギブスエネルギーの関係式より次のように展開される。
-
- : 活性化自由エネルギー
- : 活性化エンタルピー
- : 活性化エントロピー
アイリングの絶対反応速度論は改良が試みられて、一般化した遷移状態理論(いっぱんかしたせんいじょうたいりろん、generalized transition state theory)とも呼ばれる。たとえば、
- 透過係数 κ はアイリングは特に言及せず一般的にはとしたが、今日では量子化学的に解釈されトンネル効果の補正や一旦ポテンシャルエネルギー極大をを超えた後に原系に戻る頻度を表している。
- アイリングは原系の状態とポテンシャルエネルギー曲面とは無関係と考えたが、実際には原系のエネルギー状態により遷移状態(ポテンシャルエネルギー極大点)の曲面上の位置が変化する。
- 原系のエネルギーが大きくなると、遷移状態付近の曲率が小さくなり(ボトルネックが広くなる)ので、極大をを超えた後に原系に戻る頻度が増大する。
などの点がアイリングの論とは異なる。