南部重信
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時代 | 江戸 | |||
生誕 | 元和2年5月15日(1616年6月28日) | |||
死没 | 元禄15年6月18日(1702年7月12日) | |||
改名 | 彦六郎、重信 | |||
別名 | 乙松、鍋松丸 | |||
官位 | 従五位下、従四位下、大膳大夫 | |||
藩 | 陸奥盛岡藩 | |||
氏族 | 源氏 | |||
父母 | 利直、松 | |||
兄弟 | 重直、直房 | |||
妻 | 不明 | |||
子 | 行信、政信、通信 |
南部 重信(なんぶ しげのぶ、1616年(元和2年) - 1702年(元禄15年)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。陸奥盛岡藩主。南部氏の第二十九代当主。父は南部利直。母は花輪内膳の娘・松。一説には、新里刈屋の平家の落人の娘(同人物)とも言われている。幼名は彦六郎。別名は、乙松、鍋松丸など。地元との人々からは親しみを持って、「花輪殿様」呼ばれている。
盛岡藩主である南部利直の五男として生まれるも、兄の重直が健在であったため七戸城主の座に留まっていた。しかし、寛文4年(1664年)に兄の重直が子を残さず死すると、盛岡藩八万石(八戸二万石を弟の直房が継いだため)を分割相続する。
地元では、「徳川五代将軍は、花輪殿様の発言で決まった」というエピソードが残されている。
延宝8年(1680年)、徳川五代将軍を決める為、江戸城大広間には諸大名が集まった。亡くなった四代将軍家綱には、子供が居らず、家綱の甥の綱重と弟の綱吉の二人が五代目の候補である。うかつに発言すると、後に新将軍に、にらまれかねないため、大名らはだんまりを決め込む。
そんな中、重苦しい空気を切り裂き、口火を切って綱吉を推いしたのが南部重信である。これに同調する声が多数を占め、新しい将軍が決まった。従四位という御三家並みの厚遇はこの時の論功行賞といえる。
和歌に通じていた重信は、母の五十回忌に、「受けよ母 五十路の霜にかれやらて 残るかひ有りこの手向草」と読んでいる。
ちなみに、母は盛岡にいる重信には一度も会いに行かなかったといわれている。母の松は地頭であった花輪内膳の娘ではなく、新里刈屋の平家の落人の娘だった。重信の生まれる前年、三陸に大きな津波が襲来し大きな被害のつめ跡を残す。利直は被害状況の視察の為に宮古に滞在した。容姿端麗だった松は利直公の見辺の世話をするため、花輪内膳の娘と偽った。
南部家は源氏。盛岡城に迎えられたとはいえ、七戸城主になるまでの重信は部屋住みという低い身分だった。
「重信は兄弟が多く、母親が平家では、我が子の将来に不利な影響を及ぼすと考え、会いに行かなかった」と、地元に言い伝えられている。
元禄5年(1692年)に藩主の座を三男の行信に譲り隠居。元禄15年(1702年)に87歳という高齢で死去。
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