南部重直
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南部 重直(なんぶ しげなお、慶長11年3月9日(1606年4月16日) - 寛文4年9月12日(1664年10月30日))は、盛岡藩の第二代藩主。南部利直の嫡男。生母は利直の正室・蒲生氏郷の娘(一説に蒲生氏郷の養女となった姪)。
1632年、父の死去により家督を継ぎ、第二代藩主となる。祖父・南部信直の時代から着工されていた盛岡城の築城工事を完成させるなど、盛岡藩の基盤固めに専念した。
1664年、59歳で死去。重直は、4代将軍・徳川家綱に後継者の選定と家の存続を事前に願い、重直の死後、家綱は裁定して、重直の異母実弟・七戸重信(しちのへ しげのぶ )に二万石減封して盛岡八万石を与えて家を継がせ、同じく異母実弟(重信とも異母)の中里直好(なかざと なおよし)に新規に八戸二万石を与えて家を興させ、事実上の分割相続を行った。初め花輪重政(はなわ しげまさ)と称した七戸重信は南部重信(なんぶ しげのぶ)、中里直好は南部直房(なんぶ なおふさ)と名を改めた。
重直の家綱面会の内容が秘されていたようで、重直の死去時、盛岡は御家騒動の様相を呈したと伝えられているが、伝わる状況は意図的な断片との説もある。