千家尊福
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千家 尊福(せんげ たかとみ、弘化2年8月6日(1845年9月7日) - 大正7年(1918年)1月3日)は、明治/大正期に活躍した宗教家、政治家。
出雲大社宮司である出雲国造家に生まれ、教派神道出雲大社教を創始する。貴族院議員、埼玉・静岡県知事、東京府知事、司法大臣を歴任した。
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[編集] 略歴
- 弘化2年(1845年)8月 第79代出雲国造千家尊澄の子として生まれる
- 明治5年(1872年)11月 第80代出雲国造となる
- 明治6年(1873年)1月 出雲大社敬神講を組織する(同年、出雲大社教会と改称)
- 明治9年(1876年)5月 出雲大社教院と改称
- 明治11年(1878年)1月 東京神田の神田神社内に、出雲大社教会東京出張所開設(後の出雲大社東京分祠)
- 明治14年(1881年)2月 神道事務局の祭神を決定する勅裁が下る(祭神論争の終結)
- 明治15年(1882年)5月 国造職を弟の千家尊紀に譲る。出雲大社教会を分立して神道大社派と改称し、管長職に就く
- 明治16年(1883年)7月 皇室へ御恩貸の請願
- 明治21年(1888年)6月 伊藤博文の推挙により元老院議官となり、管長職を辞す
- 明治23年(1890年)7月 貴族院議員となる
- 明治26年(1893年)8月 文部省唱歌として「一月一日」が官報に告示される
- 明治27年(1894年)1月 埼玉県知事に就任
- 明治30年(1897年)4月 静岡県知事に就任
- 明治31年(1898年)11月 東京府知事に就任
- 明治41年(1908年)3月 西園寺内閣の司法大臣に就任
- 明治42年(1909年)3月 東京鉄道会社社長に就任
- 明治44年(1911年)5月 東京商業会議所特別議員に就任
- 大正7年(1918年)1月 死去、享年73
[編集] 祭神論争
[編集] 国家神道の展開
- 明治3年1月 大教宣布の詔
- 明治4年5月 神職世襲制禁止の布告と同時に「官社以下定額及神宮職員規則等」の布告。
- 明治4年7月 神祇官を神祇省に改組
- 明治5年3月 神祇省廃止、教部省設置
- 明治6年1月 大教院設立
- 明治8年4月 大教院廃止、神道事務局設置
- 明治10年6月 教部省廃止、内務省内に寺社局設置
- 明治14年2月 宮中の祭神を定める勅裁が下される
- 明治15年1月 神官が教導職に就くこと及び葬儀に関わることを禁ずる通達が出される(明治17年より実施)
[編集] 宣長と篤胤
本居宣長は、記紀をもとに「顕事(あらわごと)」と「幽事(かくりごと)」との対立軸を著し、「顕事」とは現世における世人の行う所業(=頂点は天皇が行う政(まつりごと))であり、「幽事」とは目に見えない神の為せる事(=統治するのは大国主)であるとした。
平田篤胤は、宣長の顕幽論をさらに発展させ、顕界は有限の仮の世界であるのに対し、幽界は無限の真の世界であるとし、死者の魂は「幽冥界主宰神」である大国主によって裁かれ、善なる霊魂は「天津国」へ、悪き霊魂は「夜見国」へ送られるとした。また、素盞嗚は伊耶那岐から国土の統治を任された善神であるとして、天照大神が善神であるのに対して、素盞嗚は悪神であるとの従来の説を否定した。
宣長が出雲を重視しつつも、天照大神→天皇へと繋がる系譜(「天」・「顕」中心、「伊勢」中心)を重視したのに対し、篤胤は、素盞鳴→大国主へと繋がる系譜(「地」・「幽」中心、「出雲」中心)を重視した。篤胤の思想は幕末期を経て出雲関係者の中に浸透し、明治期の祭神論争に大きな影響を与えた。
[編集] 国家神道政策
明治政府は、王政復古・祭政一致の方針のもと、天皇を天照大神より続く万世一系の絶対的権威として国民教化を図るべく、国家神道の整備を進めていた。
明治3年大教宣布の詔を発し、神祇官(のち神祇省に改組)がその中心を担った。祭祀と教化を担っていた神祇省は明治5年に廃止され、祭祀については宮内省があたり、教化の機関として新たに教部省が設置された。教部省は国民教化を担う教導職を養成するべく、大教院を設置したが、神道・仏教間の対立や各宗派間の主導権争いによりうまく進まず、仏教側は大教院を離脱、神道側は新たに神道事務局を設立するなどし、大教院は廃止された。
[編集] 伊勢派と出雲派の対立
神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、その中心を担っていたのは伊勢神宮大宮司の田中頼庸ら「伊勢派」の神官であった。これに対して尊福を中心とする「出雲派」は、「幽顕一如」を掲げ、祭神を大国主大神を加えた五柱にすべきとした。
「幽と顕、見える世界と見えざる世界、生と死、これら表裏一体である」として、「顕界」の主神たる天照大神と「幽界」の主神たる大国主神を同じく祀るよう主張する出雲派に対し、伊勢派は、天照大神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立。果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。
出雲派の主張は多くの神道者・国学者から支持を得、また伊勢派の多い神道事務局内にも尊福を支持するものが出るなど、形勢は出雲派に傾きつつあった。危機感を抱いた伊勢派は、内務省や宮内省などに働きかけ、勅裁を得るべく工作を図った。その結果、明治14年2月に開かれた「神道大会議」で、「神道事務局においては、宮中斉祭所に奉斎される天神地祇、賢所、歴代天皇の御霊を遙拝する」という勅裁が下され、これにより祭神論争は伊勢派の勝利として決着をみることとなった。
[編集] 出雲大社教の設立
尊福は勅裁を受け入れたが、同時に国家神道とは宗教的見解に基本的相違が存在することを知り、神道事務局から独立した形での教化活動を進めねばならないと考えた。明治15年に神官が教導職に就くことを禁ずる通達が出たこともあり、尊福は出雲大社教会を独立して「神道大社派」を設立。国造職を弟の尊紀に譲り、自らは管長として精力的に全国を歴訪し、布教に専念した。
[編集] 「一月一日」
(作詞:千家尊福/作曲:上真行)
年の始めの 例(ためし)とて
終りなき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
祝(いお)う今日(きょう)こそ 楽しけれ
初日の光 さし出でて
四方(よも)に輝く 今朝の空
君がみかげに 比(たぐ)えつつ
仰ぎ見るこそ 尊とけれ
※二番については、当初「初日の光 明(あきら)けく 治まる御代の 今朝の空」と、元号の「明治」に掛けた歌詞であったが、大正に改元されたのにともない、同2年に現在の歌詞となった。
[編集] 参考文献
- 『出雲大社』千家尊統 学生社(1968年)
- 『千家尊福公』出雲大社教教務本庁(1994年)
- 『出雲という思想』原武史 講談社(2001年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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