助六
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助六(すけろく)は、歌舞伎の演目の一つ。正式な題名は助六由縁江戸桜。助六は主人公の名前であり、その愛人は花魁の揚巻(あげまき)という。また歌舞伎から派生して、稲荷寿司と巻寿司の詰め合せのことも助六という。助六の登場人物である揚巻(油揚、巻寿司)に由来する。ここでは歌舞伎の助六について述べる。
[編集] 成立と上演史
歌舞伎『助六』の素材になったのは、大坂千日前で、京都島原(一説に大坂新町)の遊女揚巻と萬屋(よろずや)助六が心中した事件といわれる。元禄13年(1700年)の浄瑠璃『大坂千日寺心中』をかわきりに、『万屋助六』『蝉のぬけがら』など次々に舞台化された。上方歌舞伎では宝永3年(1706年)の『助六心中紙子姿』『京助六心中』がある。
このように上方歌舞伎の和事(わごと)として人気を得ていた「助六もの」を江戸に移入したのは二代目市川団十郎である。正徳3年(1713年)『花館愛護桜(はなやかたあいごのさくら)』という題名で上演されたのが江戸での初演。さらに正徳6年(1716年)、戯曲の背景を『曾我物語』の世界にとった『式例和曾我(しきれいやわらぎそが)』が上演される。これが一般に『助六』として知られる『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』の原型である。二代目市川団十郎は上方の遊郭ものを、江戸の荒事に大胆に翻案して人気を高め、天保3年(1832年)には、七代目市川団十郎によって歌舞伎十八番にとりあげられた。
この作品は花の吉原遊郭を舞台に、祝祭的な雰囲気にあふれた舞台を表出し、江戸時代には、吉原や魚河岸、蔵前などから小道具類や祝儀を提供されるなど、客席、舞台、さらに劇場周辺が一体となった高揚感をもたらしたという。現代でも十一代目市川海老蔵襲名披露をはじめたびたび上演されている。なお、『助六由縁江戸桜』は市川家のお家芸であるため、他の家が上演するときは『助六曲輪菊(すけろくくるわのももよぐさ)』(尾上菊五郎家の場合)など、他のタイトルをつける。
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
[編集] あらすじ
花川戸助六という侠客に姿をやつした曾我五郎時致は、源氏の宝刀「友切丸」を探すため吉原にかよっている。様々な男が集まる吉原で、遊客にわざとけんかをふっかけて、刀を抜かせようというのである。そこに助六を情夫にしている花魁揚巻が登場。揚巻にいいよる「髭の意休」が友切丸をもっているとさとった助六は、意休に刀を抜かせようとするがなかなかうまくいかない。そこへ白酒売に身をやつした兄の曾我十郎祐成がやってきて、助六に意見をする。しかし、五郎の真意をきいて自分もけんかをうる稽古をする。
やがて、揚巻が一人の侍をともなってでてくる。助六はその侍にもけんかをうろうとするのだが、おどろいたことに、その侍は五郎・十郎の母、曾我満江であった。ふたりを心配して吉原にきていたのである。助六は母からやぶれやすい「紙子」の衣をきせかけられ、激しいけんかをいましめられる。母は兄の十郎とともに帰ってゆく。なおこの紙子は、上方で助六ものが上演されていた当時から、重要なアイテムであったものが、江戸の荒事としての助六にもとりいれられたものである。
舞台にはふたたび意休が登場、意休は助六を曾我五郎と見抜いていて、友切丸を抜き、源氏をうらぎることをそそのかす。助六はもちろん応じず、意休(実は平家の残党伊賀平内左衛門)を斬り、友切丸をとりかえして吉原を抜け出す。