市川團十郎 (2代目)
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二代目市川団十郎(にだいめ いちかわ だんじゅうろう、元禄元年(1688年) - 宝暦8年9月24日(1758年10月25日))は正徳から享保年間にかけて活躍した江戸歌舞伎の名優。江戸人の絶大な人気を博して、現在にいたる市川団十郎家の基礎を築いた人物である。父は初代市川団十郎、母は初代市川翠扇。初代が成田不動尊に願をかけて生れた子であったために「不動の申し子」といわれた。俳諧、狂歌を良くし、俳号に、三升(さんしょう)・才牛・栢莚(はくえん)。
元禄10年(1697年)、中村座の『兵根元曾我』で初舞台。元禄17年(1704年)、初代団十郎の突然の死によって、山村座で二代目を襲名する。力不足で悩む弱冠十七歳の二代目を庇護したのは当時の名優生島新五郎であった。
正徳3年(1713年)、山村座『花館愛護桜』において助六を初演したころから徐々に劇壇に足場を築き、人気を得るようになる。翌4年(1714年)の絵島生島事件にあっても軽い処分でまぬがれ、江戸歌舞伎の第一人者へと成長。享保6年(1721年)には、給金千両となった。
享保20年(1735年)、養子升五郎に三代目団十郎を襲名させ、二代目市川海老蔵を名乗る。寛保元年(1741年)には大坂に上って『毛抜』を初演し、上方においても人気を博した。しかしこの年には三代目が急逝し、後嗣を失ったため、宝暦4年(1754年)、改めて門弟の二代目松本幸四郎を養子として、四代目団十郎を継がせる。
二代目団十郎の功績はきわめて大きい。若いころに師事した生島新五郎が、初代中村七三郎の芸系を受継ぐ和事師であったことから、父親ゆずりの荒事芸に和事味を加味した独自な芸風を得意とし、『助六』や『毛抜』のような演目を初演することになったわけだが、荒事、和事のみならず、実事、濡れ、やつしにいたるまで幅広い芸域を誇り、絶大な人気を得た。いわゆる歌舞伎十八番の演目が整理されてゆくなかで、もっともつよい影響を与えた人物である。
隈取の技法・様式を完成させた人物としても有名である。
[編集] 著書
- 老いのたのしみ
- 栢莚狂句集