何晏
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何晏(かあん ? - 249年)は、中国の後漢末期から三国時代の政治家、学者。字は平叔。廃帝弁を生んだ何太后の兄・大将軍何進の孫に当たる。何魏の父。
[編集] 経歴・人物
[編集] 生涯
祖父、父らが十常侍らに殺害されると、生母の尹氏が曹操の妾となり、その関係で曹操の下で成長する(後に尹氏は曹矩を産む)。曹操にはその才能を認められ、その娘・金郷公主を妻に娶るなど極めて厚遇された。だが、その後継者文帝、明帝には疎まれ、しばらくの間表舞台に活躍の場を得られなかった。
明帝の死後、養子で年少の曹芳が即位すると、その後見役として曹爽が政権を握る。曹爽と兼ねてより親しかった何晏は、一躍政権の中枢に躍り出る。吏部尚書として、多くの知人を政権に参加させている。
しかし249年、曹爽と対立関係にあり、既に隠居していたと思われた司馬懿が曹爽不在の隙にクーデターを起こす。何晏を含む曹爽派の主だった人物は捕らえられ、処刑された。
[編集] 人物像
- 『論語集解』や『老子道徳論』を編纂し、清談の気風を開いたことでも知られ、これは後世の李白らに大いに影響を与えたといわれる。
- 相当な好色漢であったとされる。そのためか、妻の金郷公主(何魏の生母)は、杜夫人が産んだ娘で沛穆王の曹林(曹操十男)の同母妹であり、何晏とは直接の血縁関係はないのだが、「実は尹氏の生んだ何晏の同母妹であった」という珍説が度々囁かれていた。
- 「五石散」という麻薬を愛用していたとされる。何晏がこれの評判を吹聴しており、流行の一助となった。