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この項目では佐竹北家4代当主の佐藤義憲について説明しています。佐竹宗家第12代当主の佐竹義憲については
佐竹義人をご覧ください。
佐竹 義憲(さたけ よしのり、元亀元年(1570年) - 慶長7年(1602年))は安土桃山時代、江戸時代の武将。佐竹義斯の嫡男。佐竹義廉の父。又七郎、左衛門督。北義憲とも。
佐竹義久の後を継いで、奥州方面の軍権を任された。また、佐竹義重の三男・岩城貞隆が岩城氏を継いで、それを補佐していた岡本顕逸が病死すると、貞隆の補佐役として岩城氏の政務を取り仕切り、検地などを行なったという。1602年、佐竹義宣が出羽に減封されるとこれに従って移ったが、まもなく死去した。
梅津憲忠と親交があり、憲忠に名の一字を与えている。