佐竹義人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐竹 義人(さたけ よしひと、応永7年(1400年) - 応仁元年12月24日(1468年1月19日))は室町時代の人物(守護大名)。佐竹氏の第十二代当主。関東管領上杉憲定の次男で第十一代当主佐竹義盛の養子(婿養子、妻は源姫)。幼名、竜保丸。初名は義憲(よしのり)。別名義仁とも。第十三代当主佐竹義俊、佐竹実定、戸村義倭、小野岡義盛の父。左馬助。
当初は義憲と名乗っていたが、1416年に「義憲」から「義人」(義仁)に改名している。
上杉禅秀の乱の際には鎌倉公方足利持氏方として行動し、上杉禅秀方についた一族の稲木義信・山入与義を征伐した。義信は戦死し、与義は降伏したが、その後も山入氏は、与義やその子である山入祐義が幕府から常陸守護を拝命するなどして義人に抵抗を続けた。永享の乱で持氏が自刃し、さらに結城合戦で関東の持氏派の残党が一掃されるなど政情が悪化すると、義人も隠居を余儀なくされ、家督を子の義俊に譲ったが(家督を譲ったのは永享の乱以前)、佐竹氏の討伐を計画していた足利義教が嘉吉の乱で暗殺されるなど関東の政局が佐竹氏にとって好転したこともあり、その後も実権を握り続けた。しかし、山入氏など庶家の抵抗は依然として強く、さらに晩年は義人が当主の義俊を遠ざけ実定(上杉憲実の猶子であった)を偏愛したため、1452年には、義俊・義治(第十四代当主)父子が居城を追放されるなど、家中はますます混乱した。1465年、実定が死去し、1468年には義人が死去すると、義俊父子が復帰することになる。