伊達定宗
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伊達 定宗(だて さだむね、天正2年(1574年) - 承応元年11月29日(1652年12月29日)は安土桃山時代、江戸時代の伊達氏の家臣で仙台藩一門。涌谷伊達家当主。父は亘理重宗。祖父亘理元宗は伊達晴宗の弟で亘理氏に養子入りする。母は相馬盛胤の女。幼名は長松丸。通称は源五郎、右近。亘理定宗。官途は安芸守。以降子孫は伊達安芸の通称を使う。
慶長5年(1600年)、関が原の戦いと同時に進行した旧伊達領で上杉領となっていた刈田郡白石城攻略で活躍した。慶長11年(1606年)、「伊達」の姓と「竹雀紋」「竪三引両紋」を伊達政宗より下賜され、伊達一門に連なった。大坂夏の陣には政宗より三十騎の旗本が付与され出陣、大阪冬の陣には三千余の兵を率いて出陣した。元和3年(1617年)、伊達忠宗に振姫(徳川秀忠の養女)が嫁いだときには政宗の代参として将軍徳川秀忠に謁見している。
元和8年(1622年)、改易された隣国山形藩最上氏の山形城を伊達成実と共に受け取りに赴く。寛永16年(1639年)、嫡男・宗実が早世した為、次男で天童家に婿養子に出していた天童頼長を呼び戻し世子とした。この頼長が伊達騒動の伊達安芸宗重である。
また、政宗逝去及び忠宗襲封の報告の為、江戸城で徳川家光に謁見した。