井上茂徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井上茂徳(いのうえ しげのり 1958年3月20日- 佐賀県佐賀市出身)は日本の元競輪選手である。現在はSPEEDチャンネル専属競輪解説者、スポーツニッポン専属競輪評論家。
釣りが趣味で、それが昂じて現役時代から釣具店を経営している。
目次 |
[編集] 競輪選手時のデータ
日本競輪学校第41期卒業。日本競輪選手会佐賀支部に所属していた。師匠は倉持義夫。1978年4月1日に選手登録。初出走は1978年5月14日、武雄競輪場。初勝利も同レース。1999年3月31日、選手登録削除。
[編集] 競輪選手時の戦績
デビュー後、しばらくは先行選手として活躍していた。1980年までは天才といわれた同期村岡和久や原田則夫の影に隠れ目立った活躍もなく平凡な有望新人に過ぎなかったが、1981年から急速に台頭、23歳の時に追い込み選手(マーク屋)に転向。その位置取りのうまさと天才的な勝負勘、最終周回4コーナーを回ってからのダッシュ力の鋭さ、落車や失格を恐れることなく他マーク屋と激しい競りをするといったその競走に対する姿勢は、「鬼脚」の異名をとり、他選手を震え上がらせた。
特に特別競輪などでは、同じ九州で福岡出身の中野浩一の後ろでマークすることが多く、井上が取った特別競輪12勝の内、実に7勝までが中野2着である。中野は井上に他の先行選手からの仕掛けを体当たりなどでブロックして守ってもらう反面、後ろに最大のライバルを引き連れて走らねばならなかった。
1981年のオールスター競輪優勝を皮切りにその後も次々とGIを制覇、1988年6月7日には高松宮杯競輪を制し、史上初めて特別競輪全冠制覇(グランドスラム)を成し遂げた(当時寛仁親王牌はまだなかった)。これは中野浩一も成し遂げられなかった偉業であり、後に滝澤正光・神山雄一郎が井上に続く事となる。
井上はレース中の失格によりKEIRINグランプリの出場権を剥奪されたり、一時期はレース中での位置を巡って中野浩一と競りを行なうなどファンをも驚かす一面があったが、選手として特に競輪道を重んじる者してファンの信頼も厚かった。
中野引退後も、その後継者の吉岡稔真を守り立てるなどして、九州の競輪界を盛り上げた。しかしレース中の事故減点制度が厳しくなったため、最上位格であるS級1班からの陥落が決定した時点で自ら引退を発表し、1999年の静岡競輪場での日本選手権競輪を最後に惜しまれつつバンクを去った。
現在井上のホームバンクだった武雄競輪場では、彼の功績を称えた「井上茂徳杯」(F1)が年に1回開催されている。
[編集] 主な獲得タイトルと記録
- 1981年 - オールスター競輪(立川競輪場)
- 1982年 - 競輪祭(小倉競輪場)
- 1983年 - 日本選手権競輪(前橋競輪場)、競輪祭(小倉競輪場)
- 1984年 - 競輪祭(小倉競輪場)
- 1986年 - 全日本選抜競輪(熊本競輪場)、KEIRINグランプリ86(立川競輪場)
- 1988年 - 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)、KEIRINグランプリ'88(立川競輪場)
- 1990年 - 全日本選抜競輪(青森競輪場)
- 1993年 - 高松宮杯競輪(大津びわこ競輪場)
- 1994年 - KEIRINグランプリ'94(立川競輪場)
- 年間賞金王2回 - 1982年、1984年
- 通算成績1626走中653勝