中村草田男
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中村草田男(なかむら くさたお、明治34年(1901年)7月24日 - 昭和58年(1983年)8月5日)は、俳人。本名・清一郎(せいいちろう)。
目次 |
[編集] 経歴
清国(現・中国)福建省廈門にて清国領事・修の長男として生まれる。明治37年(1904年)4歳の時、母とともに中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前町に帰国。2年後松山市に転居。小学校時代の大半を東京で過ごし、港区立青南小学校に通学する。
中学時代は再び松山に戻り、松山中学、松山高等学校を経て、大正14年(1925年)東京帝国大学文学部独文科に入学。昭和4年(1929年)高浜虚子に師事し俳句を学ぶ。また東大俳句会に入門。水原秋桜子の勧めで『ホトトギス』に投句。大学時代に久しぶりに母校の青南小学校を訪ねた。この時に有名な「雪と明治」の句を詠み、現在、当小学校にその句碑がある。
昭和8年(1933年)大学を卒業し、成蹊学園に就職。政経学部教授として33年間教鞭を執り昭和42年(1967年)に定年で退職。
昭和58年8月5日、急性肺炎のため82歳で死去。死の前日洗礼を受け、洗礼名をヨハネ・マリア・ヴィアンネ・中村清一郎と名乗る。墓所は東京都あきる野市の五日市霊園にある。
[編集] 作家論
虚子の守旧派としてのスタイルを継承しつつ俳句の現代化を推進。加藤楸邨、石田波郷らと共に人の内面心理を詠むことを追求し人間探求派と称せられた。昭和35年(1960年)に現代俳句協会幹事長、翌昭和36年(1961年)俳人協会を設立し初代会長に就任した。
[編集] 萬緑
現代俳句の中心的存在として、昭和21年(1946年)月刊俳誌『萬緑(ばんりょく)』を主宰した。1963年と1975年には、それぞれ同人や会員の作品を収録した『萬緑合同句集』『萬緑合同句集2』が発行された。
萬緑(または万緑)という季語は草田男が初めて用いた。
[編集] 作品
句集(第一句集から順に)
- 『長子』第一句集。初版は1936年、沙羅書店。338句収録。
- 『火の鳥』1939年、龍星閤。553句。
- 『萬緑』1941年、甲鳥書林。昭和俳句叢書中の一冊として刊行された。232句。他に前二冊から自選した句も叢書に収められた。装丁は武者小路実篤。
- 『来し方行方』1947年、自文堂。715句。
- 『銀河依然』1953年、みすず書房。近作788句に『長子』時代のもの13句を加えた。
- 『母郷行(ぼきょうこう)』1956年、みすず書房。653句。
- 『美田(びでん)』1967年、みすず書房。239句。
- 『時機(とぎ)』1980年、みすず書房。1960年前後の作品439句に72年の群作37句を加えた。
他に単独の自選句集、随筆、評論、事典、季寄せ、俳句入門書などが出版された。また『ビーバーの星』『風船の使者』といった童話も書いた。1971年にはテイチクレコードから『俳句の世界』というレコードが発売され、ここでは本人が自作を朗誦・解説している。
1980年には角川書店から『中村草田男読本』が刊行された。