世宗 (遼)
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姓名 | 耶律兀欲 |
諱 | 阮 |
廟号 | 世宗 |
字 | - |
諡号 | 孝和荘憲皇帝 |
年号 | 天禄 947年-951年 |
生没年 | 918年-951年 |
在位 | 947年-951年 |
父 | 耶律倍(長男) |
母 | 柔貞皇后蕭氏 |
耶律兀欲(やりつこつよく、918年(神冊3年) - 951年(天禄5年)、在位は947年 - 951年)は、遼の第三代皇帝。名は兀欲。漢風の姓名は劉阮(耶律阮)。廟号は世宗、諡号は天授皇帝。
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[編集] 出生
初代皇帝である耶律阿保機の嫡孫。932年に後唐の李従珂により殺害された東丹国王耶律倍(後に義宗と追諡)の子。 耶律兀欲は946年に耶律徳光に従い後晋を攻め戦功を立て永康王に封じられた。
遼 降った。天禄四年(950)、兵を率いて後漢を攻めた。翌年、後周を攻めた。軍が帰化州祥古山にいたると、察割によって殺された。
[編集] 即位
耶律徳光が後晋を滅亡させた後,耶律兀欲は兵を率いて南京(現在の北京)を奪い,群臣に擁立され947年自ら皇帝を自称するようになる。 蕭太后は上京(現在の内蒙古巴林左旗で耶律阿保機の三男、耶律李胡を立てていたため、耶律兀欲は兵を率いて北に向かい、潢河においてこの軍勢を破り、蕭太后と耶律李胡は耶律兀欲に降伏した。
国内の反対派を抑えて名実共に皇帝となった耶律兀欲は耶律質屋を用い政府内の改革を推し進めた。耶律徳光の時代の南面官と北面官を合併させ、南北の枢密院を成立、南王及び北王を廃し,後に枢密院にその機能を合わせた。
これらの改革によって遼は部族連合より中央集権体制へと転換し、それ以降の遼の発展の基礎を築いた。
しかし耶律兀欲は酒色に溺れ,狩猟を好み,晩年は奸臣を用いるなど政治は乱れた。951年9月,耶律兀欲は北漢を支援し後周を攻撃した帰途、祥古山(現在の内蒙古呼和浩特)において、耶律察割によって暗殺された。
[編集] 子女
[編集] 子
- 耶律某(早世)
- 耶律明扆(景宗・劉賢)
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