三杦磯善七
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三杦磯 善七(みすぎいそ ぜんしち、1892年11月26日 - 1951年4月22日)は、北海道爾志郡熊石村(現・二海郡八雲町)出身の大相撲力士で、最高位は関脇。
明治44年尾車に入門、6月初土俵。大正7年1月新入幕。大正8年5月に大錦卯一郎から金星を獲得、大正9年1月関脇、素質もあり大錦に強かったため大関を目前にして期待されたが病や負傷で果たせなかった。
尾車部屋の継承争いに敗れて、真砂石三郎たちとともに移籍し、最終的に伊勢ノ海部屋に所属していた。
昭和3年1月、この場所ただ1人全勝で初優勝が見えたと思われた所で千秋楽の相手は当時小結の玉錦、この時三杦磯は平幕13枚目、幕尻から数えて2枚目である。当時としてはとても考えられない割に対し周囲から「全勝潰しだ」「常陸岩に優勝させたいからだ」などと散々に言われた。この場所9勝1敗で千秋楽を迎えた大関常陸岩の相手は宮城山、横綱ではあるが常陸岩にとってはこれといった難敵ではない。もし三杦磯が敗れ常陸岩が勝てば、同点者は上位が優勝という制度により常陸岩が優勝してしまう。結局三杦磯が負けて10勝1敗、常陸岩は勝って同じく10勝1敗、しかし常陸岩は10日目に横綱西ノ海からの不戦勝があった。不戦勝は導入されたばかりの新しい制度であり、導入前はどちらかが休めば相手も休み扱い(このときの常陸岩にあてはめれば9勝1敗1休になり、勝ち越し8点としてあつかわれる)、しかも不戦勝と土俵上の勝利の価値の差についても意見が一致しなかった(実際にはその前の昭和2年10月の横綱常ノ花寛市の優勝にも不戦勝があり、同点者として大関能代潟錦作がいたという、全く同じ状況だったのだが、そのときには問題にならなかった)ため優勝問題が紛糾、結局常陸岩には賜杯と優勝額、三杦磯には優勝額に加え協会特別表彰の化粧まわしを贈呈することで決着を見たが、三杦磯は掲額を諦め常陸岩だけが掲額されることになった。このため梅ヶ谷とともに優勝経験はないのに優勝額を所持する力士となっている。またこの問題により不戦勝も土俵上の勝利と同等に数えることが確定した。
昭和4年3月引退、年寄花籠を襲名。伊勢ノ海部屋に預けられていた尾車部屋時代からの仲間開月勘太郎らとともに独立して、花籠部屋をおこした。昭和22年に部屋を閉じ、残っていた藤田山忠義ほかの弟子を高砂部屋にゆずった。昭和26年4月22日没。
照錦(十両4枚目)の岳父。開月の義兄。