一柳頼親
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一柳 頼親(ひとつやなぎ よりちか、寛政4年1月11日(1792年2月3日) - 天保3年4月7日(1832年5月7日))は、伊予小松藩の第7代藩主。父は第6代藩主・一柳頼欽(頼親は長男)。母は一柳末栄の娘・琴松院。正室は秋月種徳の娘・潤性院。官位は従五位下、因幡守。美濃守。
1792年正月11日、江戸で生まれる。幼名は兵庫。1796年、父の死去により後を継ぎ、1806年12月に叙任する。それより前の1802年には藩校・培達館を創設している。さらに近藤篤山や竹鼻正脩を登用して、文教政策に尽くした。また、伊能忠敬の測量にも協力し、1810年には駿府加番となった。1832年4月7日に41歳で死去し、後を養嗣子の一柳頼紹が継いだ。墓所:小松町の仏心寺山。