ロベルト・プロシネチキ
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ロベルト・プロシネチキ(Robert Prosinečki、1969年1月12日 - )は、ドイツ・シュヴェニンゲン出身の元クロアチア代表サッカー選手(MF)。日本では「プロシネツキ」と表記されたこともある。
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[編集] プレースタイル
フェイント、パス、ドリブルなどのゲームメーカー的なプレイに優れており、日本では「カズのフェイント」として有名なまたぎフェイントも使っていた。特筆すべきは足裏を使った高速での引き技フェイントでの抜群のキープ力でワールドユースを観戦した各国ジャーナリストから‘熊手の足‘庭師の足を持つ男と呼ばれていた。
ニックネーム「バルカンの黄金銃」の由来は、このボールを引く動きから強烈なミドルシュートまでの流れが激鉄を起こしてからひきがねを引くまでの一連の動きに似てたためだと言われている。
[編集] 略歴
ドイツ生まれ。1986年に母国ユーゴスラビアのクラブチーム、ディナモ・ザグレブへ入団。1987年のワールドユースでは大会MVPに輝くなど早くから才能を発揮していた。活躍を認められ名門レッドスター・ベオグラードへ移籍。ここではチーム最年少でありながら、既にクラブの象徴的プレーヤーになりつつあったドラガン・ストイコビッチと一緒にプレー。臆することなくゲームを作り、ストイコビッチをして「旧ユーゴでも彼の右に出る曲芸師はいない」と言わせた旧ユーゴでも指折りのテクニシャン。
1990年のイタリアW杯では1得点を記録した。 旧ユーゴ代表での最終成績は15試合4得点。W杯での華麗なデビューと90-91シーズンのチャンピオンズカップ優勝での活躍が認められた形で1991年にはレアル・マドリードへ移籍。以後スペインのクラブを転々とし、クロアチアが独立後初めて出場した1998年のフランスW杯でも活躍し(この大会でも得点したため、「ワールドカップで2つの違う国の代表でプレーし、得点を挙げた」数少ない選手の1人である)、クロアチアの3位入賞に貢献した。
以降はクロアチアやFAプレミアリーグ・ポーツマス、スロベニアなどでプレーし、2004年に現役を引退した。
[編集] エピソード
- 旧ユーゴ代表に引上げてくれたイビチャ・オシムを「恩師」として慕う。なおポーツマス時代のチームメート・川口能活によると「ロベルトは喋り方とかしぐさまでオシムさんそのままだった」だという。
- トップクラスの選手には珍しく、ヘビースモーカーであった。
[編集] 選手経歴
- ディナモ・ザグレブ(ユーゴスラビア) 1986-1987
- レッドスター・ベオグラード(ユーゴスラビア) 1987-1991
- レアル・マドリード(スペイン) 1991-1994
- オビエド(スペイン) 1994-1995
- バルセロナ(スペイン) 1995-1996
- セビージャ(スペイン) 1996-1997
- クロアチア・ザグレブ(クロアチア) 1997-2000
- フルヴァツキ・ドラゴヴォリャツ(クロアチア) 2000
- スタンダール・リエージュ(ベルギー) 2000-2001
- ポーツマスFC(イングランド) 2001-2002
- NKオリンピア・リュブリャナ(スロベニア) 2002-2003
- NKザグレブ(クロアチア) 2003-2004
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