ユルゲン・クリンスマン
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ユルゲン・クリンスマン(Jürgen Klinsmann, 1964年7月30日 - )は、ドイツ・ゲッピンゲン出身の元同国代表のサッカー選手(FW)。同国代表監督(2004年 - 2006年)。愛称「黄金の隼」。
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[編集] 選手として
1978年に西ドイツのサッカークラブチーム・SVシュトゥットガルター・キッカーズに入団してキャリアをスタート。1984年にVfBシュトゥットガルトへ移籍し、1987年/1988年シーズンには得点王を獲得。西ドイツ代表に招集され、1987年12月12日のブラジル戦でデビューを飾った。ドイツでの活躍が認められて1989年にはセリエA・インテルへ移籍した。その後モナコ、トッテナムと各国のリーグでプレーし、1995年に母国バイエルン・ミュンヘンに移籍して返り咲く。最終所属クラブはかつて在籍していたトッテナムで、1998年に現役を引退した。
代表としては、西ドイツ代表のストライカーとして1990年のイタリアW杯で優勝。EURO1992で準優勝、EURO1996では優勝を果たすなど、ドイツのタイトル獲得に貢献するとともに、長年にわたり主将を務めた。通算成績は108試合47得点。
[編集] 指導者として
代表引退後は、コーチライセンスを取得し2004年にルディ・フェラー辞任を受けてドイツ代表監督に就任した。監督就任後若手選手を積極的に起用したが、なかなか結果を出せず、親善試合でも苦戦が続いた。このため、後述するように母国を留守にしていることも相まってドイツ国民から批判を受けることが多かったが、地元開催のFIFAワールドカップ・ドイツ大会で下馬評を覆す試合内容、成績を収めたため評価は好転。3位決定戦ではポルトガルを3-1で破って3位に踊り出、ドイツ国民の「優勝出来なかった」失望感を多少ではあるだろうが和らげる一助にした。有終の美を飾る事によってクリンスマンはドイツ代表と共に笑顔で自国W杯を終える事が出来た。大会終了後、惜しまれながらも監督を辞任すると発表した。
[編集] エピソード
パン職人の息子であり、本人もパン職人の資格を取得している(現在は父は他界し、母と兄が後を継いで経営している)。その華やかな実績とは裏腹に私生活はきわめて地味であり、スター選手となった後も、クルマは中古、カバンはリュックを愛用している。現役時代から、高額な年俸の遣い道を聞かれ「将来に備えて貯蓄しているところ」と答えている。
一年の大半をアメリカ、カリフォルニアで過ごしている。アマチュアクラブのオレンジ・シティ・ブルー・スターズでは、ジェイ・ゲッピンゲンの偽名でプレーを続けていた。「ジェイ」は彼のファーストネームの頭文字、「ゲッピンゲン」は出身地のゲッピンゲンから取ったものと想像される。
シュトゥットガルト時代からのチームメイトであるギド・ブッフバルト(現浦和レッズ監督)とは唯一無二の親友である。
ローター・マテウスとは犬猿の仲であることは有名である。
[編集] 選手経歴
- SVシュトゥットガルター・キッカーズ(ドイツ) 1978-1984
- VfBシュトゥットガルト(ドイツ) 1984-1989
- インテル(イタリア) 1989-1992
- モナコ(フランス) 1992-1994
- トッテナム・ホットスパー(イングランド) 1994-1995
- バイエルン・ミュンヘン(ドイツ) 1995-1997
- サンプドリア(イタリア) 1997
- トッテナム・ホットスパー(イングランド) 1997-1998
[編集] 獲得タイトル
- ドイツ・ブンデスリーガ優勝 1回(1996年/1997年)
- 欧州選手権優勝 1回(1996年)
- UEFAカップ優勝 2回(1990年/1991年、1995年/1996年)
- イタリアW杯優勝 (1990年)
- ブンデスリーガ得点王 1回(1987年/1988年)
- ドイツ最優秀選手 2回(1988年、1994年)
- オリンピック銅メダル (1988)
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