マーガレット・オブ・ヨーク
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マーガレット・オブ・ヨーク(Margaret of York)は
マーガレット・オブ・ヨーク(Margaret of York, 1446年5月3日 - 1503年11月23日)は、ヨーク公リチャードとセシリー・ネヴィルの娘で、イングランド王エドワード4世・リチャード3世の妹。ブルゴーニュ公シャルルの3番目の妻であり、結婚してからはマーガレット・オブ・バーガンディ(Margaret of Burgundy)、マルグリット・ド・ブルゴーニュ(Marguerite de Bourgogne)として知られる。彼女はイングランド、ノーサンプトンシャーのフォザリンゲイ城で生まれ、北海沿岸低地帯のメッヘレン(現在のベルギー、アントウェルペン州)で亡くなった。
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[編集] ブルゴーニュ公妃
1468年7月9日、マーガレットがブリュッヘでブルゴーニュ公シャルルと結婚したのには、イングランドとブルゴーニュ公国の同盟のためという政治的な理由があった。すでにシャルルの政敵であるヴァロア朝フランス王ルイ11世はフランス統一を着々と進めており、それに対抗するシャルルは大きく後れを取っていたのである。「世紀の結婚」と言われるほど結婚式は豪華を極め、当時ブルゴーニュで最も裕福だったブルゴーニュ公国の宮廷の標準から見ても贅沢なものだったと言われている。
マーガレットとシャルルには子供がなかったが、マーガレットはすでに亡くなっていた先妻イザベルの子であるマリー(当時11歳)の良き母として努めた。1482年に乗馬の事故でマリーが亡くなると、マーガレットは遺児となったマリーの2人の幼子であるフィリップとマルグリットの世話をした。2人の父親は後に神聖ローマ皇帝となるハプスブルク家のマクシミリアン1世であった。
[編集] ヨーク派の一員として
1485年に弟のリチャード3世がリッチモンド伯ヘンリー・テューダーに敗れて戦死すると、ブルゴーニュ公未亡人となっていたマーガレットは、ヘンリー7世の王位を奪おうとする全ての者(ここにはランバート・シムネルやパーキン・ウォーベックといった詐欺師も含まれる)の支援者になった。ウォーベックは明らかにヨーク公リチャード(エドワード4世の息子でエドワード5世の弟)ではなかったが、マーガレットは彼を自分の甥であると公認した。
[編集] 芸術家のパトロンとして
イングランドで新たに英語での印刷・出版技術を導入したウィリアム・カクストンはヨーク派支持者であり、マーガレットは彼のパトロンの1人だった。彼の最初の英語での印刷物である「トロイ歴史集成」(1475年)については、彼がマーガレットに献上するために特別に作った彫版のコピーが今も残されており、カリフォルニアのハンティントン図書館に保管されている。
ブルゴーニュ公妃マーガレット(この当時のヨーロッパでは最も裕福で、最も力があり、最も洗練された公爵夫人だった)によって注文された多くの素晴らしい原稿のうち、最高のものはシモン・マルミオンに装丁を飾られた「トンダルのヴィジョン」だろう(これは複写がゲティ博物館で公開された)。
[編集] 同名の姪
マーガレット・オブ・ヨーク(1472年4月10日 - 12月11日)は同名の姪である。彼女はエドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの5番目の子供であった。
マーガレットはエリザベス、メアリー、セシリー、エドワード5世の妹であり、リチャード・オブ・シュルーズベリー、アン、ベッドフォード公ジョージ、キャサリン、ブリジットの姉であった。
マーガレットはウィンチェスター城で生まれたが、8カ月後に自然死で亡くなった。彼女はウェストミンスター寺院に埋葬された。