マーカス・ガーベイ
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マーカス・ガーベイ(Marcus Mosiah Garvey, 1887年8月17日 - 1940年6月10日)は、黒人民族主義の指導者、ジャーナリスト、企業家。世界黒人開発協会アフリカ会連合(UNIA-ACL)の創設者。ジャマイカの国民的英雄である。
セント・アン教区で生まれたマーカス・ ガーベイは、アフリカ回帰運動のもっとも重要な提案者として知られており、黒人に対して先の国であるアフリカに戻ることを奨励したとされる。彼の運動によって、後にネーション・オブ・イスラムからラスタファリアニズム、公民権運動にまで発展することになる。
マーカス・ガーベイの主張は、ヨーロッパの植民地政策からアフリカを解放することだった。
ジャマイカの20ドルコインの肖像になっている。
[編集] 略歴
1887年ジャマイカのセント・アンに生まれる。キングストンで印刷工として働いた後、1912年にロンドン(イギリス)に向けて発つ。 そこでデュセ・モハメド・アリの発行する新聞社に勤務しながら、ハイド・パークのスピーカーズコーナーに立ち、演説をした。 1914年にジャマイカに帰国。世界黒人開発協会アフリカ社会連合(UNIA-ACL)を設立する。
ブッカー・T・ワシントンと文通した後に、ワシントンがアラバマ州タスキーギに設立した、黒人のための職業訓練校と同様の学校をジャマイカに建設する資金を集めるため、ガーベイは1916年3月23日にアメリカ合衆国に向かう。しかし不幸なことに、彼がタスキーギに到着した時、ワシントンは死んでいた。
1916年5月9日、ガーベイはニューヨーク市で最初の講演を行い、その後、38州で講演ツアーを行う。これと同時に、黒人の地位を向上させるプログラムを開発するビジネスに着手し、世界黒人開発協会アフリカ社会連合(UNIA-ACL)の本部をニューヨークに移転させる。貿易会社ブラック・スター・ライン(Black Star Line)社を設立し、事業を拡げ、企業家としての活動を開始する。
1920年、黒人はアフリカに故国を持つべきという信念で、ガーベイはリベリアに大学、工場、鉄道を建設して発展させようと意図したが、1920年代半ばにはヨーロッパ列強のリベリアへの関心から中止させられる。1922年にはKKK(クー・クラックス・クラン)と会談し、アメリカは白人の社会で、アフリカが黒人の社会であると論じたことで、アメリカ合衆国の一部の黒人知識層からはペテン師扱いされることになる。
この後、ブラック・スター・ライン社の不正会計の疑いで、郵便詐欺罪で告発される。これにはアメリカ合衆国の政治的な意図があったとも言われる。1925年にガーベイは投獄されたが、1927年11月には釈放され、そのままジャマイカへ強制送還される。
1921年頃、ガーベイは、「民族純化」への信念に傾き、ウオレン・G・ハーディングが自らを混血であることを否定した演説を賞賛した。彼はW・E・B・デュボイスに対して強い敵意を持っていなかったが、以前にブラック・スター・ラインを批判されたことで仲は悪く、1920年代後半には、デュボイスはガーベイのことを、「精神異常者か反逆者」と呼ぶほどに敵意をむき出しにするようになった。後にガーベイはデュボイスを起訴するのだが、このことは、ガーベイと全米黒人地位向上協会との相容れない関係に通じた。それでもなお、デュボイは汎アフリカ主義の有力な支持者であった。
その後ガーベイは、1929年、ジャマイカで政党PPPを設立。労働者のためのジャマイカでの初の政党となる。1935年にはロンドンへ行き、死ぬまでの5年間を過ごす。晩年のガーベイはさらに右傾化し、ファシズムへの共感を言い表し、アフリカでの積極的に取り入れるよう推奨したが、死ぬ直前には、ナチよりもイギリスとの連帯を表明した。
1964年11月、ジャマイカ政府は、ガーベイをジャマイカの国民的英雄に選出した。
[編集] ラスタファリズムとの関係
ラスタファリズムにおいては、マーカス・ガーベイを予言者と位置づけ、ヨハネの生まれ変わりであるとさえ信じられている。これは、1920年代にマーカス・ガーベイが「アフリカを見よ。黒人の王が戴冠する時、解放の日は近い」という声明を発表したためである。1930年、エチオピア皇帝にハイレ・セラシエ1世が戴冠したときに、マーカス・ガーベイの予言が的中したと考えられた。初期のラスタファリズムは、マーカス・ガーベイのアフリカ回帰運動を元に形成された。マーカス・ガーベイの信念はラスタファリズムに大きな影響をあたえ、レゲエの重要なテーマのひとつとなっている(例えばバーニング・スピアのアルバム「マーカス・ガーベイ」など)。
しかし、マーカス・ガーベイ自身はラスタファリズムと同調することは一度もなかった。そればかりか、第二次世界大戦前のエチオピアの侵攻について、ハイレ・セラシエ1世に対して批判的でさえあった。
[編集] 関連項目
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