マルコ・パンターニ
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マルコ・パンターニ(Marco Pantani、1970年1月13日 - 2004年2月14日)はイタリア・チェゼーナ出身の自転車プロロードレースの選手。時には海賊、時には走る哲学者と呼ばれた、イタリアのヒーロー的存在であった。1998年にジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスの2大ステージレースで個人総合優勝したことなどで日本でも有名である。
[編集] 略歴
幼少の頃はサッカー選手に憧れていたが、挫折し自転車をはじめる。1992年にベビー・ジロ(アマチュア版ジロ・デ・イタリア)に優勝し一躍名を広める事となりプロ入り。1994年にジロ・デ・イタリアで区間2勝を記録。同年のツール・ド・フランスでも個人総合3位に入り一躍トップ選手の仲間入りをはたす。
1997年のツール・ド・フランスでは、ラルプ・デュエズ峠最短登坂記録 37分35秒を打ち立てた。この記録は未だに破られていない。
1998年にはパヴェル・トンコフとデットヒートを繰り広げジロ・デ・イタリア個人総合優勝、ツール・ド・フランスでも終盤でヤン・ウルリッヒを逆転して個人総合優勝を飾り2大グラン・ツールを優勝で飾る、いわゆる「ダブル・ツール」を成し遂げる。しかし1999年のジロ・デ・イタリアにおいて、個人総合優勝を目の前にした6月5日、抜き打ちのメディカル・チェックでヘマトクリット値(赤血球濃度)が、UCI(国際自転車競技連合)の定めた50%を超える52%だった為、出場停止となってしまう。
一般に赤血球濃度が非常に高い場合、特に激しい運動により水分を失うと血管が詰まりやすくなり生命に危険を生じる可能性が高くなることから、これは生命の安全を確保するための措置であり、必ずしもドーピング検査に引っかかったとはいえないものなのだが、当時自転車のロードレース界でドーピング問題が深刻化していたことから、マスコミはこの出場停止を「パンターニがドーピングで失格になった」と騒ぎ立てることになる。
ただパンターニの場合は、初回の検査時にヘマトリット値が規定より高かった事よりも(疲労が蓄積した場合に数値が高まる傾向もあるため)、16時の再検査において数値が48%と47.6%に異常に下がっていた事が問題視された。通常、疲れ等からくる数値の上昇なら、数値の大きな変動はないことから、残念ながらパンターニはドーピングを行っていた可能性が高いものと思われる。
元来精神的にナイーブな性格であった為か、ここから彼の競技生活は一転してしまう。その後はほとんど彼の為のチームであったメルカトーネ・ウノに移籍しツール・ド・フランスのステージ優勝等を遂げるも、2002年再度ドーピング疑惑があり徐々に調子を落としていきレースから遠ざかっていく。
そして2004年2月14日土曜日21時30分、ホテルLe Roseの5階にあるたった28平方メートルの5-D号室で、変わり果てた姿で発見されるのであった。それは頂点を極めたスポーツ選手、彼の栄光を考えると少し寂しい死に場所となってしまったのである。
ただ、イタリアでは現在でも彼の人気は絶大であり、ジロ・デ・イタリアのレース中には、彼の功績をたたえる横断幕やカードを無数に見ることが出来る。
[編集] 彼の死について
彼の死は当初、死因不明の自殺とされていたが、後の調査の結果コカイン中毒による死亡(コカイン中毒により脳と肺に水腫ができていた)と発表された。
彼は死の直前に遺書ともとれる幾つものメモを残していたが、その中に「全ての人々が、自転車競技の実態を知りながら、僕だけを悪者にしようとした。」というものがある。これはいかに自転車界にドーピングが蔓延しているかを指し示す事例といえよう。
また、彼の財産は家族の管理下におかれ、彼には生活費とクレジットカード1枚を手渡されていただけだと言う。この事からかどうかはわからないが、彼は両親に対し距離感を感じていた。彼の両親が彼の死を知ったのは、バカンスから帰った彼の死から2日後であった。
結局、自転車競技界からは彼の才能を、家族からは彼の財産を、彼の持つものすべてを絞り取られ、その結果神経衰弱に陥り麻薬漬けとなり、孤独に死んでいった悲劇のヒーローとも言えるのではなかろうか。ちなみに彼が最後にホテルで注文したのはチーズとマッシュルームのオムレツであった。
[編集] 主な戦績
- ツール・ド・フランス
- 1994年 総合3位
- 1995年 総合13位
- 1997年 総合3位
- 1998年 総合優勝
- 2000年 途中棄権
カテゴリ: イタリアの自転車選手 | 1970年生 | 2004年没