プルーセン
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プルーセン、古プロイセン人あるいはバルト・プロイセン人(ドイツ語: Pruzzen または Prußen; ラテン語: Pruteni; リトアニア語: Pru-sai; ポーランド語: Prusowie)は、バルト海の南東岸の、およそビスワ川とクロニアン(Curonian)湖周辺に居住していた、中世バルト族から成る民族グループだった。 13世紀の間に古プロイセン人はチュートン騎士団の改宗十字軍によって征服されて次第にドイツ化され、そして次の世紀でポーランド化された。 ドイツにかつて存在した州であるプロイセンは、バルト・プロイセン人からその名前を取ったものであるが、その州を支配したのは消滅した古プロイセン人ではなくドイツ人だった。 古プロイセン人の土地は、およそ東プロイセンの中央から南部、言い換えれば今日のポーランドのワルミアン・マスリアン・ヴォイヴォデシップ(Warmian-Masurian Voivodeship)、ロシアのカリーニングラード州と、リトアニアのクライペダ(Klaipeda)地方から成り立っていた。
[編集] 語源
ほとんどのプロイセンの種族の名前は、たいてい地形を主題に構成された。 何千という湖、小川と沼が点在するこの国であってみれば理解できる慣習ではあるが、これらの名前は水に基づいていた。 実際、そんな地形のためにバルト語派が絶滅せずに残るごく部分的な孤立地帯ができた。 その地形は南でドニエプル川の源流でプリピャチ沼に繋がっているが、これらがこの千年期に渡って効果的な障壁になってきた。
元々の前バルトの移住者は、彼らの定住地の名前を、そのそばの川、湖、海、あるいは森林にちなんで名づけるのが普通だった。 組織化した一族あるいは部族の名前は、定住地の名前から取られた。 例えば、バルティ(Barti) の故郷であるバルタ(Barta)は、リトアニアでのバルティス川(Bartis)、あるいはアルバニアのベラック(berrak)やブルガリアのバラ(bara) (「沼」の意味)のように、何か他のバルト語の水の名に関係がある。*bor- 語根は再建すると「湿地」を意味していたものと考えられる。 これはインド・ヨーロッパ語族の*bher- のo-等級から来ると思われる。 インド・ヨーロッパ語族はいくつかの*bher- 語根を持っているが、その正確な意味と変化系統は不明である。 この語根は多分Prusas(プロイセン)の中で使われているものと同じである。 より古い形の Brus- がババリア人の地理学者の地図で見いだされるからである。 古代ギリシャ語ではドニエプル川の名前はボリュステネス(Borysthenes)だったが、それは確かにねじれているけれども*Bor- を含んでいる。 タキトゥスの「ゲルマニア」では、Lugii Buriがゲルマン人の東の地域に住んでいると述べられている。 Lugi はユリウス・ポコルニーの辞書(686ページ)で言う「黒い湿地」を意味する*leug-(2)、から変化したものであろう。 他方 Buri は「プロイセン」の語根と考えられる。
Pameddi(ポメサニア)は、「近くに」を意味する言葉と「はちみつ」を意味する言葉から派生したもので、これはインド・ヨーロッパ祖語の語根*medhu-まで起源が遡ると考えられる。 Nadruvia の語源はいろいろに想定されてきた;na(近くに、接した)とdravis(木)から来たとするもの、あるいはna(近くに、接した)と語根*dhreu-(流れ、川)から来たとするものなどある。 それは古プロイセン語のNadyn (森林)、Nede(池)や、ドニエプルの支流の名前であるNydar(リトアニア語Nedejan 、ロシア語Nadva(再建されたバルト語では*Nadva ))とも関係がある。 わずかに1~2個だけ生き残ったバルト語族であるラトビア語とも明らかな関係が存在する。 ラトビア語でも川をBa-rtaと言う。 "Pameddi"を見れば、pa(近くに)とmedi(はちみつ)が含まれているのが分かる。 ラトビア語で"Nadruvia"はnodruveのような発音になるが、noは「近くに」、druvaは「トウモロコシ畑」である。
これらの要素の文脈は解明されておらず、これらのBuriが現在のプロイセンの語源であるかどうかも不明である。 紀元2世紀の地理学者クラウディオス・プトレマイオスはヨーロッパのSarmatia (ヨーロッパの8番目の地図)に住んでいるBorusciを挙げ、彼らはビスラ・フルメンによってゲルマニアから分離されていると述べている。 その地域のプトレマイオスの地図は非常に混乱しているが、このBorusciは現在のプロシアより東にあるようで、ビスラ川の河口においてはギュトン(ゴート族)の支配下にあっただろう。 タキトゥスがAesti(東の人)と記録したように、後にヨルダネス?(Jordanes)は彼らをゴート人の帝国の一部として記録した。
[編集] 初期の歴史
バルトの歴史の始め、古プロイセンはプロイセンのトルン付近の深南部とは、ビスワ川とネマン川、そしてナレウ川の線によって境を分けられていた。 カシュビアは西方にあり、南にポーランド人、東にスドヴィア人、北にクロニア人、そして北東にリトアニア人と隣接していた。 スドヴィアはおよそスワルキ川?(Suwalki)で始まった。
当時の他のバルト諸族と同様、古プロイセン人は部族構造で組織化されていた。 この構造は、チュートン騎士団の司祭デュスブルクのピーターが著した Chronicon terrae Prussiae で最も完全に記述されている。 この作品は1326年の著作である。 彼は11の国と10の種族を列挙し、それらは地理に基づいて名づけられた。
- ポメサニア(ドイツ語 Pomesanien、現代リトアニア語 Pamede、再建プロイセン語 Pameddi)
- ヴァルミア(ドイツ語 Ermland または Warmien、現代リトアニア語 Varme、再建プロイセン語 Wa-rmi)
- ポゲサニア(ドイツ語 Pogesanien、現代リトアニア語 Pagude、再建プロイセン語 Paguddi)
- ナタンギア(ドイツ語 Natangen、現代リトアニア語 Notanga)
- サンビア(ドイツ語 Samland、現代リトアニア語 Semba)
- ナドルヴィア(ドイツ語 Nadrauen、現代リトアニア語 Nadruva)
- バルティア(ドイツ語 Barten、現代リトアニア語 Barta、再建プロイセン語 Bartians)
- スカロヴィア(ドイツ語 Schalauen、現代リトアニア語 Skalva)
- スドヴィア(ドイツ語 Sudauen、現代リトアニア語 Suduva、再建プロイセン語 Su-dawa)
- ガリンディア(ドイツ語 Galindien、現代リトアニア語 Galinda、再建プロイセン語 Galinda)
ピーターはPomesaniaの南西にある11番目の土地Kulmがほとんど無人であったことを記している。 ドイツによる古プロイセン征服の後は、国土はほぼ正確にこれらの区分に沿って分割されたが、ドイツ人はタンネンベルグを中心とするサッセンという12番目の国を加えた。 以上の名前は恐らく網羅的ではないと考えられる。 これらの名前の多くが古代または中世の文献に現われるが、しかしある程度つづりと地理は文献によってさまざまである。 デュスブルクのピーターは、Pomesani、Pogesani、Varmienses などのようなラテン語の名前の方を好んだ。
[編集] 中世の歴史
歴史文献で初めて古プロイセンが明確に言及されるのは、古プロイセンをキリスト教に教化する宣教中の997年に殺されたプラハのアダルベルトに関連したものである。 異教徒の古プロイセンはローマ・カトリック教のポーランドと対立状態になったため、マソヴィア公コンラート一世は1220年代に外部の手助けを求めた。 古プロイセンはドブリン騎士団を追い払ったものの、13世紀、北方十字軍による数十年に渡る血まみれの征服活動の末、チュートン人騎士団に屈した。 生き残った原住の古プロイセン人の多くがサンビアに移住させられた。 1286年の大規模反乱を含む頻繁な反乱は、十字軍によって制圧された。
洗礼を受けた古プロイセン人はマグデブルグ大司教の元で教養を身につけた。 一方ドイツ人とオランダ人の移住者は原住民の古プロイセンを植民地化し、またポーランド人とリトアニア人は、それぞれ南部プロイセンと東部プロイセンに定着した。 ドイツ人の地盤の中に、現在カリーニングラード州にあたる所に古プロイセン人の大きな孤立地帯が残され、そしてそこが1525年までチュートン騎士団の騎士修道会国家の一部のままであった。 彼らは、特に15世紀始めにプロイセンのどの部分に住んでいたかによって、次第にドイツ化またはポーランド化された。
チュートン騎士団の修道士と学者は古プロイセン人が使う言語に対して多大な興味を持ち、それを記録しようとした。 加えて、宣教師は彼らを改宗させるために古プロイセン人と意思疎通する必要があった。 こうした経緯で古プロイセン語の若干の記録が残されている。 少し知られているガリンディア語ともっと良く知られているスドヴィア語が含まれているが、これらの記録が西バルト語族について残されている記録のすべてである。 予想される通り、それらはゲルマン祖語と類似性を示す、非常に古風なバルト語である。 古プロイセン語は、ゲルマン語/バルト語/スラブ語の共通語がかつて存在したという理論を支持するように思われる。(要出典)
チュートン騎士団は、15世紀の間にポーランド・リトアニア同君連合によって徐々に弱体化された。 1525年、騎士団総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハは、騎士団のプロイセンの領土を世俗化してポーランドの封建家臣とし、プロイセンはプロテスタントのプロシア公爵領になった。 古プロイセン人は再び反乱を起こしたが、ドイツの政府当局によって鎮圧された。 宗教改革の時代には、プロシア公爵領で公式に、およびプロシア王国のポーランド州で非公式に、領地の至る所でルター派が影響力を拡大した。 一方、ヴァルミアではカトリックが残った。 プロテスタントの導入と共に、礼拝中にラテン語の代わりに自国語を使用するようになり、アルブレヒトは教義問答を古プロイセン語に翻訳した。
古プロイセンがドイツ人、ポーランド人とリトアニア人に同化したことにより、古プロイセン語は17世紀の終わりを迎える前に消滅したが、それまでに聖書と詩がそれらの言語で書かれた。