プラノ・カルピニ
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プラノ・カルピニ(Giovanni da Pian del Carpine、1182年-1252年)は、イタリア・ヴェネツィア共和国の修道士。本名はジョヴァンニと言われているが、一般的には彼の出身地をそのまま名としたプラノ・カルピニが有名である。
イタリアのフランシスコ会に所属し、ローマ教皇の命令を受けて神聖ローマ帝国やカスティリャ王国などで布教活動を行なったことがある。その経緯から有力な修道士として名が知られるようになり、管区長に任命された。
1241年、ワールシュタットの戦いを契機として東欧・西欧にモンゴル帝国の脅威が忍び寄ってくると、1245年の第1リヨン公会議で決定されたモンゴルとの交渉役としてカルピニはローマ教皇インノケンティウス4世の命令を受けて、東欧に勢力を拡大していたモンゴル帝国のバトゥと会見する。このとき、カルピニはバトゥが建都していたサライの状況などを見て、バトゥのことを部下に対する思いやりがあり同時に大変恐れられていると述べ「サイン・ハン」(偉大なる賢君)と賞賛したが、一方で戦闘中はバトゥほど残酷なものはなくまた抜け目なく狡猾だとも言っており、バトゥの侵略によって徹底的に破壊されたキエフなどの状況を見て、「バトゥは名君だが、暴君でもある」と辛口の評価を述べてもいる。
さらにモンゴル帝国の首都であるカラコルムにまで交渉に赴き、到着直後の1246年8月24日、モンゴル帝国のハーンとなるグユクの即位式のクリルタイに列席した。この時に、カルピニ一行はグユクに会見してローマ教皇の親書を手渡して和睦交渉を行なったが、グユクは和睦ではなく教皇をはじめとする西欧諸国の臣従を望んだため、果たすことはできなかった。そのため帰国後は一時、教皇の怒りを買ったが、カルピニが記した「モンゴル人の歴史」という史書・報告書が高く評価されたこともあり、後に怒りを解かれてダルマチアの大司教に任じられた。
その後は、西欧諸国の各地でモンゴル帝国についての講演を行ないながら、1252年に71歳で死去した。
カルピニがローマ教皇庁に提出した報告書、『われらがタルタル人と呼びたるところのモンゴル人の歴史』(Historia Mongalorum quos nos Tartaros appellamus)は、当時のモンゴル帝国の風習や国民性をはじめ、軍事、政治制度など詳細なモンゴルの事情を知ることができる歴史書であり、しかもカルピニ自身がその目で見たことがあるということから、多少のカルピニ自身の誇張があるとはいえ、やはり同時代的な歴史的資料として評価は高い。
また、カルピニがこの時ローマ教皇庁にもたらしたグユク・ハンの発令によるペルシア語の勅書がバチカン図書館に現在も保存されている。ローマ教皇インノケンティウス4世に宛てたこの書簡は、モンゴル帝国で作成された経緯・来歴がはっきりしている命令文書としては最古の部類に入り、またこの書簡に捺印されているウイグル文字によるモンゴル語の印璽銘文もモンゴル語の資料としても絶対年代が判明している実質最古のものである。かれの『モンゴル人の歴史』によれば、カルピニは教皇への手紙とその翻訳の作成を要請し、帝国の文書行政の総責任者である大ビチクチ(書記)であったチンカイらがカルピニたちと「タルタル語の手紙」とそのラテン語による翻訳を一語一語検討しながら作成した事が述べられている。当時のモンゴル帝国による文書行政はウイグル語文によって行われていたようなので、ここでいう「タルタル語」とはウイグル語だったろうと現在では考えられている。カルピニはこの書簡と翻訳の2通を持ち帰ったと述べるが、現存するペルシア語の書簡はカルピニが触れている「イスラム教徒の文字」で翻訳されたものか、「タルタル語の書簡」そのものなのか議論が分かれている。ウイグル文書簡、ペルシア語翻訳書簡、ラテン語翻訳の3通があったのではとも論じられたが結論は出ていない。いずれにしろこのペルシア語文書簡はモンゴル皇帝の印璽が捺された真正のモンゴル皇帝の勅書であることに変わり無く、モンゴル帝国史における第一級の歴史資料である。
カルピニの使節は、『モンゴル人の歴史』では彼自身はあまり厚遇されなかったかのように述べているが、記述内容を総合すると、かれらはローマ教皇庁からの正式な使節としてモンゴル側でもそれに応じた応対がしっかりとされていたことが伺える。この点はモンケ時代にカラコルムを訪れたルブルクのギヨーム修道士とやや違っている。また『集史』などのモンゴル側の史料でも、カルピニら使節団はグユク即位の場面で「フランク(西欧)側の使節」として他のアッバース朝や帰順に赴いたルーム・セルジューク朝の使節などとともに記録に残されている。