フィネガンズ・ウェイク
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『フィネガンズ・ウェイク』 (Finnegans Wake) は、ジェイムズ・ジョイスの最後の小説である。
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[編集] 概要
『フィネガンズ・ウェイク』は、『ユリシーズ』刊行の翌年1923年より執筆を開始し、1924年から「進行中の作品」(Work in Progress)の仮題で「トランズアトランティック・レヴュー」「クライティーリオン」「トランジション」など複数の雑誌に逐次発表され、1939年現在のタイトルのもとにロンドンとニューヨークで刊行された。I・II・III・IVの四巻からなる。ジョイスの他の作品同様、アイルランドの首都ダブリンを舞台とする。
英語による小説ではあるが、各所に世界中のあらゆる言語(日本語を含む)が散りばめられ、「ジョイス語」と言われる独特の言語表現がみられる。また英語表現だけをとっても、意識の流れの手法が極限にまで推し進められ、言葉遊び、二重含意など既存文法を逸脱する表現も多い。『若き芸術家の肖像』以来の神話的世界と現代を二重化する重層的な物語構成と相俟って、ジョイスの文学的達成の極と評価される。
しかし、あまりに難解な作品であるため発表当時から賛否両論に意見が分かれ、それまでは最もよき理解者であったエズラ・パウンドでさえ「理解不能」であるとの手紙をジョイスに書き送っている。その一方で、1929年には擁護者たちによる論文集『進行中の作品の結実のための彼の制作をめぐる我らの点検』("Our Exagmination Round His Factification for Incamination of Work in Progress")が出版される。この本の巻頭論文「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」(「・」が一世紀を表す)こそ、当時大学を出て間もないサミュエル・ベケットの初めて活字になった文章であった。これを機に二人は二十世紀の文学史上最も有名な交友関係を結ぶこととなり、ベケットはしばしばジョイスの秘書的な役割をも果たした。
なお、物理学における基本粒子クォークは、この作品の中の鳥がquarkと3回鳴いたというところから、三種類の性質を持つクォーク理論の提唱者であるマレー・ゲルマン自身によって命名された。
[編集] 翻訳
日本語への翻訳は不可能とも言われていたが、『早稲田文学』に共訳で「フィネガン徹夜祭」のタイトルのもとで冒頭部分を含む一部が発表され、のちに出版された(『フィネガン徹夜祭その1』鈴木幸夫他訳、都市出版社、1971年)。また集英社版『世界の文学1 ジョイス エルマン ズヴェーヴォ』(1978年)に大沢正佳他の部分訳が発表された。
その後、早稲田文学訳の参加者の一人であった柳瀬尚紀による全訳が『フィネガンズ・ウェイク』のタイトルで1991年に発表された。I・IIとIII・IVの二分冊となっている。2004年には河出書房新社から三分冊で文庫化された。柳瀬訳はジョイスの原文の言葉遊びを尊重し、可能な限り日本語の言葉遊びを駆使して置き換えを図っている。柳瀬は『フィネガン辛航紀―『フィネガンズ・ウェイク』を読むための本』において、その苦心談や翻訳に凝らした技巧の一端を披瀝している。
2004年6月には、宮田恭子による『抄訳 フィネガンズ・ウェイク』(集英社)が発表された。抄訳といっても、全体を二分の一に圧縮したもので、断章ごとに詳細な解説が附されている大部の本である。装丁は丸谷才一らによる三人訳『ユリシーズ』に合わせている。
[編集] 梗概
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
原題 Finnegans Wake はアイルランドの伝説の大工ティム・フィネガンの物語にちなむ。ティムは屋根から転げ落ちて死んだが、その通夜に生き返ったという。Wake はゲール語で「通夜」を意味すると同時に英語で「覚醒」を意味する。また英語の Wake は航跡、すなわちフィネガンの人生の行程を意味する。ここでタイトルにアポストロフィがないことに注目したい。『フィネガンズ・ウェイク』のフィネガンは一人のフィネガンではなく、複数のフィネガン、つまりは人類全体を暗示する。この作品の主題は、だれか特定の人物の物語ではなく、人類の原罪による転落と覚醒であり、円環をなす人類の意識の歴史なのである。
タイトルのフィネガンの転落は小説第1巻の冒頭に登場するが、すぐにその挿話はダブリンのある家族の物語に受け継がれる。商店主ハンフリー・チップデン・エアウィッカー(HCE)、その妻アナ・リヴィア・プルーラベル(ALP)、その間の二人の息子シェムとショーン、娘イザベルである。小説はハンフリーの裁判をめぐって展開するが、小説中ハンフリーとアナはむしろその略称の変形で登場する。そのため『フィネガンズ・ウェイク』を論じる場合、一般に主人公と妻はそれぞれ略号 HCE と ALP で言及される。
ハンフリーがその名で登場するのは小説第1巻第3段落であるが、彼は Here Comes Everybody 「ここにくるすべての人」であり、人類の歴史に登場するさまざまな人物でもある。小説中、HCEはイエス・キリストであり、騎士トリストラム卿である。HCEはまた人間以外のものの姿をとって現れることもある。小説の冒頭、HCE は Howth Castle and Environs (ホウス城とその周辺)、すなわちダブリンの街そのものであることが示される。妻の ALP もまた、ダブリンを貫流するリフィー川(リヴィアはリフィーのラテン語名)であり、トリスタンの恋人イゾルデであり、すべての女性の象徴であることが示される。HCE がアダムなら ALP はその妻イヴであり、HCE が人類であるなら ALP はそれと呼応しあう世界である。
なお小説中、場面と人類の意識の転換を示す雷が各国語の合成による擬音語で3度登場するが、このなかには日本語 kaminari も含まれる。
小説の冒頭は riverrun, と小文字ではじめられるが、これは第4巻最終章「アナ・リヴィア・プルーラベル」と対応している。「アナ・リヴィア・プルーラベル」は、意識の流れの手法によりアナの独白によって構成される章である。夫や家族についてのアナ・リヴィアの呟きは、そのままにダブリンを貫流して大西洋へ滔々と流れ行くリフィー川の呟きとなり、やがて短い切れ切れの緊張した語の断片の配列となって、人類の覚醒を予感させる昂揚した ALP の意識の高まりのうちに『フィネガンズ・ウェイク』は終わるが、その最後にはピリオドを伴わずに定冠詞 the がおかれ、この定冠詞が第1巻冒頭の語 riverrun にそのまま続いており、作品全体が人類の意識の流れの終わりなき円環をなすことが示される。
[編集] 影響
清水義範は柳瀬訳『フィネガンズ・ウェイク』のパスティーシュ作品として、短編『船が州を上へ行く』(講談社文庫『私は作中の人物である』に収録)を発表している。