パリ国立高等音楽・舞踊学校
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パリ国立高等音楽・舞踊学校(Conservatoire National Superieur de Musique et de Danse de Paris)は、通称パリ音楽院として知られる、パリ(フランス)にある、音楽・舞踊芸術の教育機関である。単にコンセルヴァトワールと言った場合は、この学校を指していることが多い。
教員は一流の演奏家で構成され、高いレベルの音楽教育を行い、数多くの優秀な演奏家を輩出している。
専攻別で入学の年齢制限が設けられており、特にピアノ・ヴァイオリンなどの専攻科目は年齢が低いことが特徴。
- 22才:ピアノ、ヴァイオリン、フルート、ハープ
- 24才:サキソフォン、クラリネット、ファゴット
- 26才:上記以外の弦楽器・管楽器、ギター、オルガン
- 28才:ピアノ伴奏法、即興演奏
入学後、卒業資格(ディプロム)を得るための主な必要最低年数は3年(科によっては2年)。現在卒業試験は1回しか受けられず、一つの科に最大で4年間まで(科によっては3年)在学できる。
フランス革命直後に組織されたため、それまでの教会付属の音楽学校と異なる近代的な教育システムを確立し、その後の各国の国立音楽学校の範となった。
1795年に創立され、初代院長はベルナール・サレット(作曲家)であった。1911年にパリ8区のマドリッド通りに移転し、さらに現在はパリ19区のヴィレット公園内にある。
外国人差別が想像を絶するほど酷かった19世紀、フランツ・リストは入学を許されることはなかった。スペインのピアニスト兼作曲家のイサーク・アルベニスは「ガラスを割って入学を延期」したかのように伝わっているが、実際には入学試験に落ち、ブリュッセル音楽院へ飛ばされた後はスコラ・カントルムで教え、生涯この学校への憎悪を隠し持っていた。フェルッチョ・ブゾーニがアントン・ルビンシテインにこの学校への留学を相談したところ、「あんなところには行くのを止めておけ」と返したことは有名である。伝統を保持する(conserver)と言う意味の学校名が示すように伝統に固執し、ときには多くの才能ある学生を取りこぼしたことでも有名である。オリヴィエ・メシアンとモーリス・ラヴェルはローマ賞を取り損ね、音楽院の職にあったカミーユ・サン=サーンスは学生のアルフレッド・コルトーに向かって、「へぇ、お前でもピアニストを目指すのか」と皮肉った。
教育・研究の一環として演奏団体も持ち、1828年に創立されたパリ音楽院管弦楽団 (L'orchestre de la societe des concerts du conservatoire) は1967年パリ管弦楽団に改組消滅するまでフランス有数の名オーケストラとして知られた。 かつてのスコラ・カントルム(ヴァンサン・ダンディが設立)やエコールノルマル音楽院(コルトー・オーギュスト・マンジュオが設立)は、この学校と様々な面において対立関係にあった。
[編集] 主な歴代院長
- ルイジ・ケルビーニ(1822 - 1842)
- アンブロワーズ・トマ(1871 - 1896)
- テオドール・デュボワ(1896 - 1905)…『ラヴェル事件』で辞職
- ガブリエル・フォーレ(1905 - 1920)…音楽院改革を行い、《ロベスピエール》とあだ名された。
[編集] パリ音楽院で学んだ主な生徒
- シャルル=ヴァランタン・アルカン
- ジョルジュ・ビゼー
- ピエール・ブーレーズ
- クロード・ドビュッシー
- ポール・デュカス
- ジャック・イベール
- オリヴィエ・メシアン
- ピエール・モントゥー
- モーリス・ラヴェル
- パブロ・デ・サラサーテ
- エリック・サティ
- リチャード・クレイダーマン
- ジェラール・グリゼイ
- トリスタン・ミュライユ
- フィリップ・マヌリ
- マーク・アンドレ・ダルバヴィ