バスティーユ牢獄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バスティーユ牢獄(バスティーユろうごく、Bastille)またはバスティーユ要塞(バスティーユようさい、la forteresse de la Bastilleラ・フォルトレス・ド・ラ・バスティーユ)は、フランス革命以前、政治犯を収容していたと言われる牢獄。旧体制支配(アンシャン・レジーム)の象徴でもあった。フランス革命で民衆の暴動により襲撃される。なお、民衆は武器を得る目的で襲撃したとも言われている。解放された囚人は7人(精神障害者2人、文書偽造犯4人、非行貴族1人)で、政治犯はいなかった。当時の収監者の中にはマルキ・ド・サドがいた(実際にはマルキ・ド・サドは、フランス革命の数日前にシャラントラン=サン=モーリス修道院に移送されていたらしい)。
バスティーユ牢獄はフランス国内に3箇所あった国立刑務所で、1370年にパリの東側を守る要塞として建造された。 約30mの城壁と8基の塔を有し、周囲を堀で囲まれ、入口は2箇所の跳ね橋だけであった。 ここを国事犯の収容所としたのはルイ13世の宰相、リシュリューであり、これ以降バスティーユには国王が自由に発行できる「勅命逮捕状」によって捕らえられた者(主に謀反を起こそうとした高官たち)が収容されるようになった。 ルイ14世の時代に、王政を批判した学者なども収容されるようになり、またこの頃から収容者の名前を公表しなくなったため、市民たちにいろいろと邪推されるようになった。 囚人がバスティーユに連行される際、馬車の窓にはカーテンがかけられ外から覗くことは不可能であり、さらに出所する際には監獄内でのことは一切しゃべらないと宣誓させられた。また牢獄内では名を名乗ることは禁じられ「○○号室の囚人」と呼ばれていた。
バスティーユは人間だけを収容するわけではなく、危険視された物は勅命逮捕状によっていかなる物でも収容された。有名な例としては「百科全書」などがある。
一般に、バスティーユは残虐非道な監獄であると認識されているが、実情はかなり異なる。 部屋は5m四方であり、天井までは8mある。窓は7mの高さにあり、鉄格子がはまっているものの、外の光は十分に入り込む。 また囚人は、愛用の家具を持ち込むこともでき、専属のコックや使用人を雇うことすら可能だった。 食事も豪勢なものであり、昼食に3皿、夕食には5皿が出され、嫌いなものがあれば別のものを注文することができた。 牢獄内ではどのような服装をしようが自由であり、好きな生地、好きなデザインで服をオーダーできた。 また図書館、遊戯室なども完備されており、監獄内の囚人が病気などになった場合は国王の侍医が診察した。このため、他の監獄で病人が出たとき、病院ではなくバスティーユに搬送することがあった。 このように環境が整っているため、出所期限が訪れても出所しなかったり、何ら罪を犯したわけでもない者が債権者から逃れるために入所したこともある。
1774年のルイ16世即位からバスティーユ襲撃の1789年まで、収容された人数は合計288人であるが、このうち12人が自ら望んで入所している。
なお、フランス語の「バスティーユ(bastille)」は固有名詞ではなく、単に「要塞」を意味する語に過ぎないが、定冠詞を付け大文字でLa Bastilleと書いた場合はパリのバスティーユを指す。要塞と言う意味に限定されず現在はこの広場付近の地区を指す語でもあるため、要塞であることを強調したい場合はla forteresse de la Bastilleという表記をすることもある。
要塞は革命後に解体され、現在はバスティーユ広場となっており、広場中央には革命の記念柱が立っている。広場に面しては、かつて郊外線のバスティーユ駅があったが、廃止後に解体され、現在はオペラ・バスティーユが建てられている。
現在はメトロ・バスティーユ駅の5番線Bobigny行きホームに、この要塞の壁の遺構の一部を見ることが出来る。またバスティーユ広場より少し離れたセーヌ川沿いのスクウェア・アンリ=ガリという小さな公園に、丸型の基盤の遺構の一部が移され保存されている。