ハッティンの戦い
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ハッティンの戦い(Battle of Hattin, 1187年7月4日)は、エルサレム王国の十字軍とアイユーブ朝のサラーフッディーン率いるイスラム勢力の間の戦い。この戦いに勝利したサラーフッディーンは攻撃を継続してエルサレム王国を壊滅させ、同年10月に聖地エルサレムの奪回に成功した。
戦場はティベリア近郊、死火山の跡で「ハッティンの角」と呼ばれる二つの丘のある地域で、アッコンより西へ向かう道から北側の山地を抜けてティベリアへと向かう道の途上にある。
[編集] 背景
ローマ人により建設されたダーブ・アルハワルナフ(Darb al-Hawarnah)街道は、地中海沿岸よりガリラヤ湖を経てヨルダンの浅瀬へと東西に通じる主要道路であった。1187年7月2日、サラーフッディーンはわずかな手勢を率いてこの街道を東に向かい、ガリラヤ海西岸の町ティベリアをほとんど制圧し、さらにトリポリ伯レイモンド3世の妻エスチヴァの居るティベリアの城塞を包囲した。その時、レイモンドとエルサレム王ギー・ド・ルジニャンは十字軍の主力部隊を伴ってアッコンに滞在していた。彼らは1,200名の騎士と20,000名近くの歩兵、およびエルサレム王国防衛のためにイングランド王ヘンリー2世が金で雇った数千人の傭兵から構成されていた。
レイモンドは、アッコンからティベリアへまっすぐ進軍すればサラーフッディーンの思うつぼにはまる恐れがあるため、守るに有利なセフォリア(サッフリッヤ)の地に拠るべきだと主張した。しかしギー・ド・ルジニャン王は、この主張に対する臆病者という非難や十字軍内におけるレイモンドの発言力を抑えたかったことから、ティベリアへ急行するよう命令した。一方サラーフッディーンは、要塞を包囲するよりも野戦に誘いこんだ方が十字軍を容易に撃破できることを計算していた。
[編集] 経過
7月3日、セフォリアより進軍を開始した十字軍は早速イスラム勢力によるゲリラ的な攻撃に悩まされた。同日午後、サラーフッディーンはカファルセッテに約30,000名の軍を集結させ、十字軍の迎撃に出発した。十字軍は大きくテンプル騎士団、エルサレム王国軍、ホスピタル騎士団の3つの部隊に分けられていたが、後衛のテンプル騎士団が絶え間なく襲撃を受けたため、全体の進軍が遅滞してしまった。このため水もなく一日中行軍した十字軍は途中の平地で野営せざるを得なくなった。彼らを包囲したサラーフッディーンは、野営地の周囲より夜通し弓矢で攻撃し、休息の暇を与えなかった。
7月4日の朝、喉の渇きに苦しみ士気の低下していた十字軍は、野営地よりハッティンの丘にある泉に向かった。しかしその途上に伏せていたサラーフッディーンの軍が十字軍を分断するように攻撃を開始した。レイモンドは、この状況を突破しようとして指揮下の騎士と共に突撃したが、2度目の突撃により本隊と分断されてしまい、丘への退却を余儀なくされた。また混乱に陥った十字軍のほとんどの歩兵はハッティンの丘に向かって敗走を始めた。騎士を守る歩兵がいなくなったため、敵の弓騎兵により馬が射倒されてしまい、騎士は徒歩で戦わねばならなくなり彼らも劣勢により丘に向かって退却した。
ハッティンの丘に包囲された十字軍は、サラーフッディーンの軍に向かって三度絶望的な突撃を敢行したが、いずれも打ち破られてしまった。サラーフッディーンは最終的に、ギー・ド・ルジニャン王やテンプル騎士団総長ジェラルド・ド・ライドフォートやホスピタル騎士団総長など十字軍の多くを捕虜にした。同じく捕虜になったルノー・ド・シャティヨンは、この十年来休戦条約を犯してイスラム教徒の商人や巡礼者に対する虐殺を続けており、さらには紅海に船団を出してマッカを侵そうと試みた事もあったため、サラーフッディーン自らが彼を処刑した。またこの時、キリスト教徒にとっては重要な聖遺物である「真の十字架」も奪われた。
およそ3,000人の十字軍兵士は逃れることができた。一方捕虜になった者の内、富裕な家の者は身代金と交換に解放されたが、残りの者は奴隷にされるか、騎士であれば処刑された。またギー・ド・ルジニャン王はサラーフッディーンに紳士的な扱いを受け、のちに解放された。
[編集] 影響
十字軍の主力を壊滅させたサラーフッディーンは快進撃を続け、9月中旬までにアッコン、ナブルス、ヤッファ、トロン、シドン、ベイルート、アスカロンなどの諸都市を次々と征服した。1187年10月2日には聖地エルサレムを陥落させ、エルサレム王国は滅亡した。これによりパレスチナの地に建てられた十字軍国家は、いくつかの拠点を除くほとんどが崩壊した。またハッティンでの十字軍の壊滅的な敗北とイスラム教徒による聖地エルサレムの征服がヨーロッパに伝えられ、第3回十字軍の直接的動機となった。