ノイエ・ヴァッヘ
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ノイエ・ヴァッヘ(Neue Wache、「新衛兵所」)はドイツの首都ベルリンの中心にある建物である。1816年に衛兵所として建設され、現在は「戦争と暴力支配の犠牲者のためのドイツ国立中央追悼所」として使用されている。
ノイエ・ヴァッヘは都心を東西に横切る目抜き通り、ウンター・デン・リンデンの北側に位置する。ノイエ・ヴァッヘの設計を手がけたのは建築家カルル・フリードリッヒ・シンケルであり、ドイツの新古典主義建築を代表する作品のひとつである。当初の目的はプロイセン王国皇太子の衛兵の見張り所であり、1931年に戦没者追悼所となった。
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、この場所にあり老朽化していた砲兵隊衛兵所を取り壊し、近くにある皇太子宮殿のための衛兵所の建設を命じた。王は新古典主義建築の第一人者シンケルに衛兵所の設計を委任した。これはシンケルにとって、ベルリンでの初めての大きな仕事であった。
建物の玄関には古典的なドーリア式の柱廊が構えられている。シンケルは自分の設計について、「この建物は全方向に開かれあらゆる方向からの視線にさらされる。これは古代ローマのカストルム(城塞)の平面図とだいたい同じとなるため、四隅に堅牢な塔を立て中庭を設けた」と述べている。柱廊上部の家型の切妻(ペディメント)に彫られた彫像は、ナポレオン戦争でのプロイセンの果たした役割を記念することを意図していた。当時まだ戦争は終わったばかりであり、プロイセンにとってはこの戦争はナポレオンからの解放戦争であった。彫像の中には、戦いの雌雄を決する勝利の女神ニケの姿も見える。
この建物は第一次世界大戦の敗戦とドイツ帝国の崩壊までプロイセン王室の衛兵所の役割を果たしていた。1931年、建築家ハインリッヒ・テスナウはプロイセンの州政府から、この建物を第一次大戦でのドイツ人戦没者の記念碑として再設計するよう依頼された。彼は中庭に屋根をかぶせて追悼ホールに変え、その中央にパンテオンの天窓のような円形の開口部を設けて館内へ光が降り注ぐようにした。ノイエ・ヴァッヘはこのとき以来、戦没者追悼所として知られるようになった。1945年、第二次世界大戦の最後の数ヶ月、ノイエ・ヴァッヘはソ連軍によるベルリンへの砲撃などでひどく破壊された。
ウンター・デン・リンデン周辺の地区は、連合軍のベルリン占領におけるソ連地区となり、1949年以降はドイツ民主共和国(東ドイツ)の一部となった。1960年、ノイエ・ヴァッヘは修復され、「ファシズムと軍国主義の犠牲者のための追悼所」として再開された。1969年、東ドイツ建国20年を記念し、永遠の火をともしたガラスのプリズムによる彫刻が中央に設置された。また建物内には無名のドイツ兵一人と無名の強制収容所犠牲者一人の遺骨が祀られていた。
1991年のドイツ再統一の後、ノイエ・ヴァッヘは改装され、1993年には「戦争と暴力支配の犠牲者のためのドイツ連邦共和国中央追悼所」(Neue Wache als zentrale Gedenkstätte der Bundesrepublik Deutschland für die Opfer des Krieges und der Gewaltherrschaft)となった。第一次世界大戦以後のドイツのすべての戦没兵士、空襲や引き揚げなどによるすべての一般市民の犠牲者をはじめ、ドイツと戦ったすべての国の軍民問わない犠牲者、ナチスドイツに殺されたユダヤ人やロマ民族や同性愛者などすべての人々、ナチスに抵抗して死んだ軍人や民間人なども追悼の対象となっている。また「戦争と暴力支配の犠牲者」に捧げられた碑文によれば1945年以降の全体主義の犠牲者も追悼の対象となっており、これは東ドイツ体制下の犠牲者も含むと思われる。もっとも、戦没兵士の中には武装親衛隊などナチ党員も含まれており、これは批判の対象となったことがある。
東ドイツ時代にノイエ・ヴァッヘにあった彫刻は移され、かわりに彫刻家ケーテ・コルヴィッツが第一次世界大戦で死んだ息子を考えて作った1937年の作品、「ピエタ(母と死んだ息子)』が置かれている。この彫刻は円形の天窓の下にあり、雨風や冬の寒さにさらされ、第二次大戦で苦しんだ一般人を象徴している。