ドミトリー・トルストイ
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ドミトリー・アンドレーエヴィッチ・トルストイ伯爵(Дми́трий Андре́евич Толсто́й、Dmitry Andreyevich Tolstoy、1823年– 1889年5月7日(ユリウス暦4月25日))は、帝政ロシアの政治家。 ロシア帝国国家評議会議員(1866年)、文部大臣、内務大臣を歴任。トルストイ伯爵家の支流に当たる。
1843年ツァールスコエ・セロー・リツェイ(貴族の子弟のための中等高等学校、リセ)w:Tsarskoye Selo Lyceumを卒業する。1853年海軍省に官吏として入省する。1865年から1880年まで宗務院(シノド、w:Holy Synod)のOber-prokurorの傍ら、1866年から1880年まで文部大臣に当たる国民啓蒙大臣を務める。1871年大学改革を実施したが、古典文学、就中、ラテン語、ギリシャ語教育を重視し、結果は復古的教育の流行に終わった。
1882年内務大臣兼憲兵隊司令官に就任する。–1889, トルストイ伯は、反動政治家の重鎮として1880年代その名が知れ渡った。また、彼は強力な権力、官憲を国家が有することを支持していた。トルストイは、地主貴族が持つ権力の後退を目指し、農奴統制の暫定協定で内務省による地方自治の統制力、影響力強化を目論んだ。また、1882年には、いわゆる「臨時規則」を発布し、これによって新聞、出版などの自由を大きく制限した。トルストイは、A・パズーヒンとともに、「反改革 counterreforms」を主導し、それは国民大衆の怨嗟の的となった。
1882年トルストイ伯は、帝国サンクト・ペテルブルク科学アカデミー総裁に選出され、ロシア史に関する文献をいくつか著した。
[編集] 外部リンク
- ドミトリー・トルストイ(ロシア語)
- ロシア帝国文部大臣
- 1866 - 1880
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- 先代:
- アレクサンドル・ゴロヴニン(ゴローニン)
- 次代:
- アンドレイ・サブロフ
- ロシア帝国内務大臣
- 1882 - 1889
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- 先代:
- ニコライ・イグナチェフ
- 次代:
- イワン・ドゥルノヴォ