ドイツ・イデオロギー
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『ドイツ・イデオロギー』(ドイツ語: Die Deutsche Ideologie) はカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスとの共著作。青年ヘーゲル派の批判を通じて、唯物論的な歴史観の基礎を明らかにしようとした著作だが、マルクス・エンゲルスの生前は刊行されず、草稿・原稿の集積として終わり、死後に刊行された。
目次 |
[編集] 『ドイツ・イデオロギー』の歴史
1845〜1846年にかけて、マルクスとエンゲルスがベルギーのブリュッセルで共同執筆した。しかし原稿を書き上げたものの、出版社から出版を断られ、原稿はマルクスの家の屋根裏に放置。マルクスは後にこの原稿のことをふりかえり、それを放置したことを、「気前よく原稿をネズミどもがかじって批判するがままにさせておいた」(マルクス『経済学批判』への序言)と自嘲した。エンゲルスはマルクス死後にこの原稿をひきとったものの、やはり放置され、エンゲルスの死後に、ドイツ社会民主党の手にわたったが、ここで原稿が分散。ごく一部の原稿を、同党の幹部であったエドゥアルト・ベルンシュタインが発表するにとどまった。
ロシア革命後、原稿の複写がソ連政府にわたり、1924年に初めて草稿のほぼ全体が刊行された(リャザノフ版)。リャザノフのソ連共産党除名をうけて、1932年に「マルクス・エンゲルス全集」の一環として新版が刊行された(アドラツキー版)。リャザノフ版は文献学的検証がなかったものの原稿をできるだけそのままに提供する形で刊行されたが、アドラツキー版は、原稿をバラバラにして、自分たちの意図通りの順番に並べ替えるという作業を行った。この編集方針は1960年代に批判を呼び、その後さまざまな編集方針のもとでいくつものタイプの『ドイツ・イデオロギー』が刊行されることになった。
[編集] 構成
第1巻
- 1 フォイエルバッハ
- ライプツィヒ宗教会議
- 2 聖ブルーノ
- 3 聖マックス
- ライプツィヒ宗教会議終結
第2巻 真正社会主義
このうち、復元が問題になったのは、「1 フォイエルバッハ」の部分である。とくに執筆のプロセスは研究者の間でも議論百出で、国際的な合意は存在していない。現在、新『マルクス・エンゲルス全集』刊行を企画している研究者たちの研究到達では、この部分は4つの草稿があり、かかれた時期がかなりバラバラで、他の章で使うべきものをもってくるなどして構成しているのではないか、というところまで判明している。
[編集] この著作の背景
ドイツでは強権的なプロイセン政権が支配しており、革命運動はフランスのように現実の政治経済闘争のスタイルとして現れることができず、「脳内革命」ともいうべき、哲学の分野で表現されることになった。これを準備したのがヘーゲル哲学で、この学派の解体とともに、革命的な分子は「青年ヘーゲル派」(ヘーゲル左派)となり、聖書の「虚偽」を暴くなど宗教に対する哲学的闘争を展開し、ルートヴィヒ・フォイエルバッハのように唯物論へ進む者も現れた。マルクスとエンゲルスもこの一派に一時期属した。
しかし、マルクスとエンゲルスは、こうした哲学における闘争では限界があることを感じ、やがてこの一派から離れて、現実の政治・経済の変革にすすむ共産主義思想へと変化。青年ヘーゲル派を批判することをめざし、この著作の執筆にとりかかった。主な批判の対象はフォイエルバッハ、ブルーノ・バウアー、マックス・シュティルナーである。上記の構成はまさに、この3人の批判にあてられているが、「聖」と冠されているのは、マルクスが皮肉たっぷりに中世の宗教会議に擬して批判を行ったからである。
2巻の「真正社会主義」は当時ドイツで広がっていた社会主義思想の一派で、マルクスとエンゲルスはこの一派の批判をも企図していた。2巻で草稿が現存するのはこの中では断片的な3つの章のみである。
このように、観念における闘争が現実の闘争だと思い込んだ、転倒した意識を揶揄して、マルクスとエンゲルスは「イデオロギー」と呼んでいる(マルクス主義ではその後、観念形態一般を「イデオロギー」というようになったが、ここでの使用法とは区別されていることに注意)。
[編集] この著作で明らかにされたもの
この著作の意義は、唯物史観の基礎の原像をつくりだしたことだった。「土台」(経済)と「上部構造」(国家やさまざまな意識の形態)という概念が登場し、さまざまな箇所でこの両者の関係を、さまざまな角度から浮き彫りにしている。
たとえば「これまでのすべての歴史的段階に存在した生産諸力によって条件づけられ、またそれをふたたび条件づける交通形態は、市民社会」「すでにここで明らかになるのは、この市民社会があらゆる歴史の本当の竃であり、舞台であるということ、また現実的諸関係を無視し、大げさな政治劇に限定されたこれまでの歴史観がいかに馬鹿げたことなのかということだ」という叙述に見られるように、経済=市民社会が歴史段階を規程するという命題がここにはある。青年ヘーゲル派の見解はいうに及ばず、上部構造のさまざまな現象にとらわれる見解をマルクスとエンゲルスはここで批判している。
また、社会における支配的思想とは何かという解明である。「支配的階級の諸思想は、どの時代でも、支配的諸思想である。すなわち、社会の支配的な物質的力である階級は、同時にその社会の支配的な精神的力である」。このような支配階級の支配的思想は、むきだしの立場を出さずに、必ず価値中立形態をとるので、それを暴くためには特別な闘争が要る、としている。こうした解明によって、シュティルナーやバウアーの思想が実は何者かの代弁をしているにすぎないことを暴露しようとしたのである。
あるいは、階級はどのように形成されるか、個人での意識や活動がどうやって革命に結びついていくのか、革命とともに支配的思想が変わることなどが次々に解明されている。マルクスは、この時代の後は、まさに「市民社会」の解明のために経済学の研究に没頭するため、史的唯物論にかかわることは、ほとんど言及しなかった。それゆえに、マルクス自身が自由奔放に語った史的唯物論の諸命題としては、後の時代に見られない貴重なものが様々に登場している。
[編集] マルクスの個人史からみた本作の限界
マルクスは、その後、自分の共産主義的見解を次々に発展させていっており、『ドイツ・イデオロギー』で書かれた命題でも、かなりの部分はその概念を更新させたり、廃棄したりしている。たとえば生産のなかで人間が結ぶ社会関係を、マルクスとエンゲルスは、この著作では「交通形態」と呼んでいるが、以後の著作ではほとんど登場しなくなる。
あるいは、社会発展の基礎を「分業」にみており、共産主義はこの分業の克服と全体的人間の回復だと考えているが、こうした共産主義革命論は、『資本論』では採用されていない。また、社会発展史についても「部族所有」「古代的な共同体・国家所有」「封建的所有」などという区分にとどまっており、生産関係ではなくその法的な表現である「所有」にのみ注目するものとなっており、その内容も、後の解明と比べて貧弱である。
マルクスは『ドイツ・イデオロギー』執筆から13年経った、『経済学批判』の「序言」のなかで、自分のブリュッセル時代の研究に結論を得たと書いており、史的唯物論の完成した定式は、『経済学批判』序言のなかで展開されている。