チョ晩植
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曺晩植 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 조만식 |
漢字: | 曺晩植 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
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片仮名: (現地語読み仮名): |
チョ・マンシク |
ラテン文字転写: | Cho Man-sik |
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曺晩植(チョ・マンシク、1883年 - 1950年)は朝鮮の独立運動家、教育者、政治家である。古堂と号した。
1883年、平安南道に生まれた彼は1911年、明治大学法学部に進学。帰国後、三・一独立運動に参加し逮捕される。1932年には朝鮮日報社長に就任。独立運動を鼓舞し「朝鮮のガンジー」と呼ばれた。平壌における長老派教会の重鎮でもあった。
1945年の日本の敗戦後は、平壌において平安道人民政治委員会委員長として建国運動をおこした。朝鮮の有名な指導者はほぼソウルにいたため、朝鮮北部を占領したソ連軍当局にとっては、平壌で活動していた曺晩植だけが金日成に代わり得る人物だった。ソビエト軍特別宣伝部長・グレゴリー・メクレルは、占領後に、その次期指導者選びのために、曺晩植に面会し、曺晩植はソ連軍政に協力姿勢を見せているが反共思想・反共姿勢を内に隠しているため信用できないとソ連に報告している。
同・1945年11月にはソ連軍当局の呼びかけで各地の人民委員会から代表が出席することで、北朝鮮における最初の統治機構ともいえる以北五道行政局が創設された。曺晩植はその長(委員長)となった。
1946年12月、米英ソ外相によるモスクワ三国外相会議が朝鮮半島の信託統治案を提示したことから、朝鮮半島は賛否を巡って紛糾した。五道行政局も信託統治案を巡って分裂し、消滅した。曺晩植は信託統治案への反対を表明したため、ソ連軍当局および共産主義者たちと対立した。ソ連は信託統治案に各論反対姿勢によってその進展を阻んでいたが当初の提案では主導的な立場をとっていたため、曺晩植の信託統治案反対表明によって彼を首班にする選択肢を失った。このために北朝鮮は東欧よりも早く共産化されたとも推測されている。曺晩植は、信託統治への反対に端を発した対立が原因で収監され、朝鮮戦争がはじまった直後に処刑されたとも病死したととも言われている。