タミル・イーラム解放のトラ
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タミル・イーラム解放のトラ (தமிழீழ விடுதலைப் புலிகள், Liberation Tiger of Tamil Eelam ; 略称 LTTE)は、スリランカ北部の分離独立を獲得するため、多数派のシンハラ人に対して武装闘争を展開している少数派タミル人の組織。
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[編集] 背景
シンハラ人: スリランカの住民の多数, シンハラ語(インド・アーリア語派)を話す、多くは仏教を信仰、島南部に居住、農民が多い
タミル人: タミル語(ドラヴィダ語族)を話す、多くはヒンドゥー教徒、主として北部と東部沿岸に居住
1947年、議会選挙の際、1人1票制が採用され、シンハラ人は、政府で多数派を得た。タミル人は、レバノン型の権力分割(50:50)を主張したが、そのような提案は通らず、回答として、タミル・イーラム統一解放戦線運動が起こり、その指導者は、インドのタミル・ナドゥ州及びスリランカのタミル人居住区から成る統一タミル人国家の創設を主張した。
一方、シンハラ人は、政府の支援の下、反タミル人・キャンペーンを展開し始め、民族浄化を提唱する人民解放戦線を創設した。
この頃、タミル人の青年達は、不活発な統一解放戦線に不満を持ち始め、1976年、ヴェルピライ・プラブハカランは、タミル・イーラム解放のトラを設立した。
[編集] 闘争の経緯
タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)は、1978年5月に各地の警察署を襲撃したのを皮切りに広範囲なテロ活動を展開している。1980年代には訓練キャンプを各地に設立し、本格的な武装闘争を展開し始めた。当初、ゲリラの訓練には、インド軍将校が当たったと言われる。
当初劣勢だった政府軍は、装備の充実に努め、1987年までにはLTTEを北部のジャフナに追い詰めることができた。しかし、ここで親タミル的なインドが介入し、タミル人に物資を空中投下し、スリランカ政府に停戦の圧力を加えた。当時のスリランカ大統領ジャヴェロデンは、これに激怒し一時は宣戦布告も考えたが、結局交渉に入った。交渉での合意に従い、タミル人には自治権が与えられ、武装解除の義務を負うこととなった。停戦の監視には、インド平和維持軍(IPKF)が当たった。
停戦後、平和が訪れたかに見えたが、今度はシンハラ人民族主義者がテロ活動を展開した。LTTEも、これを好機と見て武装闘争を再開した。平和維持軍を自任するインド軍は、LTTEに対して大規模な行動に出ることに決め、1988年5月には5万5千人の部隊をスリランカに駐屯させた。
1989年、ラナシングフ・プレマダサが大統領に当選した。彼は、大きくなりすぎたインドのプレゼンスを排除するために、LTTEとの交渉を再開した。休戦が発表されると、インド軍の存在意義はなくなり、スリランカ政府の執拗な要請の下、1990年3月にインド軍は撤退した。同時にプレマダサは、シンハラ人民族主義者を葬ることに決め、彼の命令により野党、統一国民党の支持者4,500人が殺害され、同党は壊滅した。この間、LTTEもテロ活動を再開し、1991年5月21日には元インド首相ラジブ・ガンジーを、1993年5月1日にはプレマダサ大統領を暗殺した。
1994年にクマラトゥンガが大統領に当選し、三度LTTEとの交渉を再開したが決裂し、政府軍は大攻勢を展開して、1995年にLTTEの拠点ジャフナを奪取した。攻勢は継続されたが、決定的な勝利を収めることはできず、LTTEのテロにより治安情勢は顕著に悪化し、1998年には非常事態が導入された。1999年12月18日にはクマラトゥンガ大統領の暗殺未遂が起き、彼女は視力を失った。
2000年以降はノルウェーの調停で停戦していたが、2006年にスリランカ軍が北部拠点の空爆を開始、政府は停戦破棄を否定したがLTTEは停戦崩壊を宣言した。戦闘は本格的なものとなり、双方の死傷者は増加し続けている。
[編集] 年表
- 1972年 - ヴェルピライ・プラブハカランによりLTTE結成。
- 1985年5月14日 - 仏教の聖地アヌラドハプラでシンハラ人146人を射殺。
- 1987年4月21日 - コロンボで爆弾テロ、100人以上が死亡。
- 1991年5月21日 - 自爆テロにより元インド首相ラジブ・ガンジーを暗殺。
- 1992年11月16日 - 自爆テロにより海軍司令官クランシ・フェルナンドを暗殺。
- 1993年5月1日 - ラナシング・プレマサダ大統領を暗殺。
- 1994年10月24日 - 大統領候補ガミニ・ディッサナヤキを暗殺。
- 1995年4月19日 - 2隻の汽船を爆破。
- 1996年1月31日 - 自動車爆弾により中央銀行の建物を爆破、91人が死亡。
- 1996年7月18日 - 政府軍キャンプを襲撃、兵士1,200人が死亡。
- 1996年7月24日 - 列車を爆破、70人が死亡し、約60人が負傷。
- 1998年1月25日 - 仏教の聖地ズブ寺院を爆破、13人が死亡。
- 1998年3月5日 - バス爆破、30人が死亡。
- 1998年5月17日 - 親政府派のジャフナ市長(タミル人)を暗殺。
- 1999年9月18日 - シンハラ人の村落を襲撃、50人が死亡。
- 1999年12月18日 - コロンボでの集会で爆破、15人が死亡。チャンドリカ・クマラトゥンガ大統領は目を負傷。
- 2000年 - ノルウェーの調停で停戦。
- 2006年 - 政府軍がLTTE北部拠点の空爆を開始。
[編集] 闘争形態
インド情報機関の情報によれば、LTTEは、約1万人のゲリラ兵と3千~6千人のテロ要員を擁している。LTTEは、スリランカ北部と東部の沿岸州で軍事行動を展開し、全土でテロ攻撃を行っている。
LTTEは、世界タミル協会、世界タミル運動、在カナダ・タミル人協会連盟等の国際組織から合法的に開設された銀行口座を通して資金援助を受けており、旧ソ連諸国から武器を調達している。武器は、小火器が主体だが、高速艇等の船舶も有しており、インドとスリランカを隔てるポーク海峡には、しばしばLTTEの海賊が出現する。さらに、LTTE側からスリランカ海軍の護送船団に襲撃する事もあり、同海軍との海戦に発展する事もしばしばある。
LTTEの新兵は、厳しい教育とイデオロギー工作を受ける。これらの訓練の終了後、戦闘員には、敵が彼らを生け捕りにできない ように、青酸入りカプセルが手渡される。統計上でも、青酸が頻繁に使用されている。テロ活動の全期間に渡って、捕虜となったのは1人だけである。
LTTEの兵士は、自分自身の生命も、他人の生命も評価していない。彼らは、自爆テロで悪名高く、実行者の中には女性も存在する。
[編集] 少年兵問題
テロ攻撃と共にLTTEが世界から非難されているのは、未成年者を兵士として利用していることである(少年兵問題)。
LTTEの戦闘員は、タミル人の農村から未成年者を強制的に徴兵している。子供を戦争に送りたくない両親達は、政府軍の支配地に逃れているが、それでもLTTEの戦闘員はどこからともなく現れ、子供を連れ去っている。子供が就学している場合、卒業後LTTEに入隊することを条件に徴兵を猶予されることもある。
強制的に徴兵された子供達は、LTTEの訓練キャンプで十分なイデオロギー工作を受け、やがて自分をタミル人のための自由の戦士と考えるようになる。そして、今度は自分が子供達を兵士に勧誘する立場になる。
未成年者の徴兵は、タミル人内部でも批判の声があり、1990年代から子供を取られた両親や人権擁護組織は、子供達の返還を要求し始めた。1998年、国連の特別監視団がLTTEの支配地を訪問したが、LTTEは17歳未満の子供を徴兵していないと請け負った。しかしながら、両親達はこのことを信じておらず、LTTEの支配地から逃れることを選んでいる。
[編集] 関連項目
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