スカラ座
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スカラ座(Teatro alla Scala、あるいは単にLa Scala)はイタリア・ミラノにある世界でもっとも有名な歌劇場のひとつである。
目次 |
[編集] 歴史
現在の建物は2代目のもので、初代の歴史的建築物のテアトロ・ドゥカーレは1776年2月25日、謝肉祭のガラ・コンサート後に焼失した。ミラノに住み、劇場のバルコニー席を持つ裕福な90人の市民がオーストリア大公フェルディナントに新しい劇場の建設と、新劇場完成までの仮劇場の提供を依頼した。
新古典主義の建築家ジュゼッペ・ピエルマリーニが最初の設計案を作ったが、オーストリア人長官のフィルミアン伯爵はこれを却下した。1776年、第2案がマリア・テレジアにより承認された。
新劇場は以前サンタ・マリア・アラ・スカラ教会のあった場所に建設され、これが劇場の名称となった。教会は取り壊され、ピエトロ・マルリアーニ、ピエトロ・ノゼッティ、アントニオおよびジュゼッペ。フェが2年を費やして劇場を完成した。新劇場は「公国立スカラ新劇場(Nuovo Regio Ducal Teatro alla Scala)」の名で1778年8月3日に落成し、アントニオ・サリエリ作の『エウロパ・リコノシゥータ』でこけら落しを行った。
[編集] 設備など
建設費はバルコニー席の売上げで賄われ、各ボックスの持ち主は自席を豪華に飾り立て、スタンダールら観客に強い印象を与えた。劇場はほどなく「スカラ座」の名で知られるようになり、高貴で裕福なミラノ市民の絶好の社交場となった。当時の慣習では、平土間席(プラテア)には座席が無く、観客は出し物を立ったまま鑑賞した。オーケストラ・ピットの構造はまだ導入されておらず、オーケストラは客席から丸見えであった。
スカラ座は一貫して、バルコニー席の階上に余り裕福でない人でも観劇できるようなガレリア席を設けており、これはロッジョーネ(天井桟敷)と呼ばれる。普通、天井桟敷には口うるさく熱狂的なオペラファンが多数詰め掛けており、歌手がうまく歌えたり失敗したりするのに対し熱狂的にも情け容赦なく批判的にもなりうる。スカラ座の天井桟敷はオペラ界の炎の洗礼であるとみなされ、失敗は末永く語り継がれる。有名なテノール歌手ベルゴンツィは、アイーダの歌い出しでしくじったことが許されず、非情にもイタリアで最も軽蔑的とされるフィスキ(口笛)で野次られ、長期間に渡りスカラ座の舞台に戻ることが無かったのである。
建設当時の大抵の劇場と同様、スカラ座はロビーにたむろすギャンブラーにとってはカジノでもあった。
スカラ座の当初の照明は油のランプで、舞台用の84基およびその他劇場内のための数千基が設置されていた。そのため何百個もの防火用水入りバケツを多数の部屋一杯に配置していた。その後油ランプはガス灯に替わり、1883年には電灯に交換された。当初の構造は1907年に改修されて今日の配置と同様になった。第二次世界大戦中の1943年、スカラ座は爆撃で大きく破壊されたが再建され、1946年5月11日にトスカニーニの指揮による記念すべき演奏会で再開した。
スカラ座には現在ロビーから入場可能な博物館が付属し、そこでは絵画、草稿、彫像、衣裳やその他オペラに関係する文書など特別な収蔵品を保有している。
[編集] 運営
スカラ座は数々の著名なオペラの初演の舞台となり、とりわけヴェルディとの特別な関係を有している。しかし、あるときヴェルディの音楽が座付きオーケストラによって改変された(ヴェルディに言わせれば破壊された)ことを理由に、ヴェルディは彼の作品を上演することを禁止していたことがある。
スカラ座のシーズンは伝統的に12月7日の聖アンブロジウスの日(ミラノの守護聖人)から始まる。全ての公演は深夜0時までには終了しなければいけないため、長大なオペラは必要に応じ開始時刻が繰り上げられる。入場券を持っていても開演後には入場が許されない。俳優のリチャード・バートン(1925-1984)が経験したように、この規則には例外が無い。
[編集] 近年の改修
劇場は2002年1月19日から2004年11月までの間、スイス・ティチーノ州の建築家マリオ・ボッタによる大改修プロジェクトのため閉鎖された。閉鎖中オペラ座は市の中心部を遠く離れた新しいアルチンボルディ劇場に移った。改修に対して伝統派から歴史的なディテールが失われる虞があるという異論を招いた。しかし、オペラ座当局は内部構造およびホール内部の分厚い赤絨毯を撤去した際の音響の改善効果に感心しているといわれる。舞台は全面的に造り替えられ、拡大された舞台裏はより多くの舞台装置を収容でき、従来より多数の公演に対応できるようになった。客席にはモニタが設置され、観客はオペラのせりふを英語、フランス語およびイタリア語で読むことが出来る。再開公演のチケットは2000ユーロで発売された。改修費用は6100万ユーロといわれ、オペラ座の収支不足は2006年度まで続くものと見られる。
[編集] その他
1990年以来スカラ座の総支配人の職にあったカルロ・フォンタナは、人気作品をより多く公演にかけたいと主張し、珍しい作品を積極的に取り上げようとする音楽監督・指揮者リッカルド・ムーティと長年対立してきたが、2005年2月に運営理事会から解雇された。その結果団員が反発し、強い不満の表明とストライキを引き起こした。劇場の理事会は運営を早急に統一する必要があるという声明を出した。同年3月16日、スカラ座オーケストラとその他の団員はムーティに対する不信任案を圧倒的多数で決議し、ムーティ自身がフォンタナの後任に据えたマウロ・メーリの辞任を要求した。ムーティはこの数日前相互不和を理由に演奏会をキャンセルせざるを得なくなっていた。イタリアの文化相ジュリアーノ・ウルバーニは指揮者を支持したが、スカラ座の円滑な運営と名声を護るため、劇場運営側の速やかな行動を要請するしかなく、収拾に失敗する。4月2日、ついにムーティは長年一緒にやってきた団員の敵意への当惑を示しつつ音楽監督を辞任した。
[編集] 関連項目
- ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団